続・駄文箱
□籠の中3
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この、
色素の薄い、
小汚いながら美形な男は、
自分の恋人だと言う。
『馬鹿げている。』
記憶を無くした笛吹は先ほど鏡を見た。
自身の姿を見ることで、何か思い出すのではないか、と淡い期待を抱いて。
磨かれたことなどないであろう曇った鏡に映っていたのは、
頭に包帯を巻いて、血色の悪い顔にメガネをかけた、どう贔屓目に見ても男にしか見えない自身の姿だった。
『よくこんなのにキ…キ…キ、ス、など出来るな…。』
思った途端、頬が熱くなる。
触れるだけの、子供みたいな口づけだった。
少なく見積もっても30は越えているだろう自分に、笹塚と名乗った男は平然と、むしろ愛しげに口づけてきた。
『モテそうなのに、同性愛者か…。』
いや、
『だとしても、結局モテそうだ…。』
笛吹は乱暴に唇を手の甲で拭った。
記憶がないことに、笛吹は焦燥を覚えていたが、無理に思い出さなくて良いと笹塚が刷り込みのように何度も言うので、笛吹自身もそんな気になっていた。
『変な男だ…。』
「笛吹?」
洗面所に笹塚が現れて、笛吹の姿を認めるとそれとは分からないくらい、微かに笑って見せた。
「飯、食えそうか?」
おいで、と手を差し伸べられた。
笛吹は戸惑いながらもそうするのが自然なのだろうと思い、素直に笹塚の手を取る。
笹塚の手は笛吹の手よりも一回り近く大きい。
『家の中なのに、手を繋ぐとか…馬鹿じゃないのか…。』
本当は反論して、反抗して、笹塚を振り切って、
この殺風景な部屋を飛び出したって良かった。
他にも頼れる知人がいるはずだったし、まず何より医者にきちんと行くべきだ。
事情を説明して病休を貰った、と笹塚は言っていたが、仕事だってほったらかしには出来ない。
友人の事も家族の事も仕事の事も自分の事も、ぽかりと抜け落ちてしまった笛吹は、生まれ落ちたばかりの赤ん坊のように無防備で、無力だった。
笹塚はそんな笛吹が頼れる唯一の存在だった。孵化したばかりの雛が親を盲目的に信頼するように、笛吹は笹塚のことを信じるしかない。
「笛吹?大丈夫か?」
笹塚の冷たい手が笛吹の頬を包む。
笹塚はふわふわと捉え所がなく、嘘を言っているのか、真実を言っているのか判然としない。
それでも、
笛吹に向けられる眼差しは蕩けるようで、
そして、
それを嫌ではない、と感じている笛吹がいることは揺るぎない事実だった。
『本当に、この男と…こ…恋人、同士…だったんだろうか…。』
手を繋ぐのも、抱き締められるのも、口づけられるのも、
困惑はするものの、嫌悪感はない。
むしろ、
離れがたく思ってしまう。
記憶をなくしてもなお、胸に生まれるときめきを何と呼ぼう。
笛吹は笹塚の手を頬から外すと、ぷいと顔を背けた。
「あまり重いものは食べられないと思う…。」
ぼそりと呟くと笹塚が、頭上で微笑む気配がした。
「じゃあ、うどんにしようか。」
笹塚は再度、笛吹の手を取ると、リビングのソファに笛吹を座らせてくしゃりと髪を撫でてから台所へ消えた。
殺風景な笹塚の部屋のリビングにはソファとローテーブルがあるだけで、家具らしい家具はほとんどない。
テレビも置いてあったが、ビデオデッキが繋いであるだけでアンテナ線は繋がっておらず、ビデオ再生専用のようだった。
新聞や雑誌、本や書類の類いは一切ない。
外界の情報はどうやって入手するのだろうかと、不思議に思うほど何もない空っぽの部屋だ。
きょろきょろしている内に、笹塚が湯気の立ち上る丼を2つ持って戻ってきた。
「ん、熱いから、気を付けて。」
正直な所、食欲はほとんどなかったが、透き通ったつゆにふわふわと卵でとじられたうどんが浮かぶ様を目の当たりにして、笛吹は自然と割り箸を割っていた。
「ネギは?いるか?」
顔を上げないまま頷くと、すぐに丼にネギが入れられた。
直接床に座り、ローテーブルで向かい合ってうどんを食べた。
うどんを食べながら笹塚は、安っぽいガラスのコップに注いだ焼酎を水のように飲む。
「全部食べられなかったら残しな。俺が食べるから。」
何でもない笹塚の心遣いを嬉しいと思うあたり、笛吹は自身を重病だと思った。