―――たかが数十分を遡(さかのぼ)っただけなのに、何故か遠い過去の出来事のように彼は思った。けれど、現はただただ重く圧し掛かっていることに変わりはない。 彼が振り返ると、彼女はベッドを前にして佇んでいた。背後の彼に気付き、彼女は向かい合うように振り向くと、声を絞った。 「……神田」 「どうした」 「私……この子を産む」 「なっ……」 その言葉に彼は面喰った。それに比べ、彼女は強い眼差しを向ける。 「堕ろすなんて考えられない。だから」 「何を言ってんだ……」 「なんで……最初からそういう方向に話を進めるのよ。神田も兄さんも周りのみんなも」 彼女に怒りの感情が表れていた。 「産むのは女よ? 私よ? どうして勝手に決めるの?」 「……自分の立場を弁えろ」 あまり強く物を言えない立場にある彼だが、さすがにこの事態はまずい、と弁解に苦心の色を見せる。 「女である以前にお前はエクソシストだ。言わなきゃわからねえのか」 人工妊娠中絶という選択肢は暗黙の了解であった。 無理もない。この教団にいる限り、性別なんていうものは保証されたものではなかった。そして新たな生命を迎える場所ではない。 何よりも、彼女の兄も交えて決めたこと。どんなにあがいても、もうすでに包囲された状態なのである。 「……もしかしたら」 それでも彼女は言葉を紡ぎだす。その姿勢には、ただならぬ気配をうかがわせた。 「この子も適合者かもしれない。この子だけのイノセンスがあるかもしれない―――だったら、この子の命は無駄にできない」 彼女の言うことは筋が通っている。 両親がイノセンスに選ばれた人間であるなら、二人の血が流れるその子供にだって同じものを与えるかもしれない。彼女はそれに賭けたがっている。彼女が言うよりも彼が先に、可能性という枠組みの中で考えていたことだった。そしてこのことを誰も口にしなかった。 彼女の懸命な訴えに、彼は飽くまでも冷静に対処する。 「本気でそれを望んでいるのか?」 低く辛辣(しんらつ)な声が彼女の動揺を誘う。まるで自身に向かって問いかけているようにさえ思われた。 「たとえ本当にそうだとしても、自分の子供をエクソシストにさせたいなんて、お前が本気で思っているのか?」 「わ、わたし……」 「心にも思っていないことを口にするな」 彼女の言葉を待たずに、そう突き放すように冷たく言う彼に、彼女からの返事はなかった。 彼の言うとおりなのである。彼女が本当にそう思うはずなかった。我が子にまで同じ運命を背負わせるなどということは彼女は決して選ばない―――彼も同じくして、何度も考え巡ったことだった。 「どうしようもないことなんだ。お前のためにも、そいつのためにも……だ」 自分のためにも 彼の脳裏で、口にださなかった言葉を、幾度も木霊(こだま)させた。 |