D灰文

□芽
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苦しそうな息づかい、咳き込む音、決して心地よいとはいえない嘔吐(えず)く音―――この静寂に包まれた部屋の中で響く。だが、それらの音は次第に治まっていき、少しばかりの時間が経過すると、安定を見せた。


「落ち着いたか」
「……」


すぐ隣で女の背中を擦っていた男が声をかけるが、彼女は黙ったままだった。その態度を彼は気にも留めず、水だ、といってグラスを彼女に手渡した。彼女は無言で受け取って、それを口に運ぶ。その間に彼は水道の蛇口を捻った。


「少し横になれ」


彼がそう言うと彼女はこくり、と頷いて後ろの方にあるベッドへ移動する。その足取りは覚束なかった。


彼の、ほんの数十分前に受けた両頬の腫れはもう引いていた。右頬は彼女の兄である室長に、左頬は同輩から受けたものだった。
前者は言葉なき制裁であった。ただ無言を貫き通して手を上げた。鉛のように重い拳、その力は計り知れなかった。
後者は不意打ちだった。室長室を出た瞬間、左頬に痛みが走っていた。壁に叩きつけられたほどの威力であった。目の前には彼が日ごろ気に食わないと思っている白髪の同輩が瞋恚(しんい)の表情で立っていた。イノセンスを発動させていない生身の拳だったが、非常に強い力であった。


〈リナリーになんてことを……僕たちの仲間になんてことを!〉


その同輩の怒涛の叫びは、広い廊下に響き渡る。
一発では怒りがおさまらないのか、さらに殴りかかろうとする同輩を、アレンやめろ!と赤髪の同輩が羽交い絞めして制止させた。同様に胸中は穏やかではないはず。だが冷静であった。
しかし、そんな同輩たちに何も言わず、何もせず、彼は黙ってその場を後にするのだ。
我を忘れた白髪の同輩にどんな罵声を浴びさせられても、一貫して彼は沈黙を通した。そんな彼の斜め後ろを、リナリーと呼ばれる彼女は俯きながらついていった。同じく、一言も発することなく。


すると彼女の様子が変わった。
すぐに何が起こったかを察した彼は、手で口を押さえた彼女をそのまま医務室に連れて行く。咄嗟の判断と行動であったが、彼女に降りかかった症状はどんなものか、すでにわかっていた―――つわりだった。


幸いにも医務室には誰もいなかった。これは意図的に配慮されたものなのか、本当にただの偶然なのかわからないが、彼らにとって好都合に変わりはなかった。




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