戯言仮4

□Γ
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わざとトイレ以外の部屋の扉を開け、玄関を開ける。実際酸欠寸前だったし、こんなに塩素臭いのに換気しない方が不自然だろう。今の持ち物では臭いは完全に消せないので、上から更に強い臭いを覆い被せる作戦で、必要になったら、日曜大工の一環で木片にペンキを塗っていたという設定の下で溶剤が多く混ぜてあるペンキもぶちまけるという選択もある。
彼は部屋の奥にいる二人を一瞥して、開けてある玄関から廊下に出た。空気が澄んでいる!というのが第一印象。しかし、それも直ぐに蛋白質や脂質の腐った臭いと塩素が混合された鼻につく臭いに侵食されていった。階段やエレベーターの方に目をやるが、まだ高橋が見たという警察はいない。と、いうか何故警察がこのマンションに来るのだろうか。彼はこの建物に足を踏み入れたのも初めてなので、全く何がなんだかわからなかった。
一回大きく伸びをすると、高橋が手招きしているのが見えたので、玄関を開けたまま部屋に入る。言い忘れた事でもあったのかと急いで聞きに行くと、
「きもやかって呼んでえぇ?」
「嫌です」




何分かすると、玄関が開いているのにも関わらず律儀にインターフォンを押す輩が現れた。彼は高橋に言われた事が勘に障ったのか、少し不機嫌な様子で玄関に出ていく。しかも急いでいたのでその時、置いてあったペンキに足が引っ掛かり、ブルーシートにぶちまけてしまった。立っていた刑事が「あーあ」と漏らした。幸い、ブルーシート以外には垂れていない。
「玄関が開いていたもので、しかもプールの臭いするし」
へらへらと笑いながらそう刑事は言った。
「溜まった洗濯物を漂白剤に漬けてるんですよ。後、ペンキで木塗ろうとしたら倒しちゃうし」
彼は乱れた髪をかき揚げながら、どちら様と尋ねる。実際には知っているが。
「二田署刑事課の鈴木です。あの、お隣りの根府川さんはご存知ですよね?」
「…あー、知ってますよ。なんか最近は時間が合わないのか全然見ませんけど」
内心、どきっと、冷や汗を掻いた。根府川?誰だそれ。しかし、そこで本音を出しては自分が応対している意味がない。
「あれ、失踪してる、って知ってました?」
新たな展開過ぎて頭が付いていけない。おとなりさんが失踪してる?会った事もないのに一体自分は何をやっているんだか。
刑事が言うにはこうであった。最近港湾局港湾経営部長が東京港管理事務所で自殺した。しかし自殺にしては不自然な点が多すぎるという。怨恨の可能性があるということで、愛人と噂されていたその根府川さんを重要参考人として追っているらしい。肝心なその根府川さんも十ヶ月前に失踪届が出されてるが。死体さえあれば、確認が取れるのに、と。
「なんか、その頃おかしな事はありませんでした?よく電話している声が聞こえた…とか」
「いえ、特には。根府川さん、随分と早くに出ていくので、何時もあんまり会いませんでした。時折見かけて挨拶する程度です」
別所には悪いと思うが嘘を並べてていた。こっちも下手に狼狽えれば、怪しまれてもおかしくないのだ。それで今後の仕事に影響が出たら困る。彼は地味ながらも必死であった。

ありがとうございますと、刑事が立ち去ろうとすると、何か思い出したように彼に向き直った。指は隣の部屋を指している。
「お隣りさん、会社ですかね?」
「いや、出張らしいですよ」
「何処に?」
「仙台に」
「いつ頃帰ってくるか、わかりますか?」
「いえ、牛タン買ってくるから楽しみにしてろとだけ言われました」
高橋は『お隣りさん』がお気に入りであるらしく、彼に事あるごとに話していた。『お隣りさん』の名前は岡野。岡野の話を高橋が焦って帰ってくるまで別所と話していたのであった。出張でいなくてつまらないと別所が話していたのを咄嗟に思い出した功績だ。実際に仙台に行ったのかは知らないが、何と無く頭に思い浮かんだのが仙台だった。
刑事は牛タン食いたいな、とボソッと呟くと、早々に根府川さんの部屋の前に行き、管理人から借りたであろう鍵で入っていく。遅れる事十分、もう一人の男が走って行くのが部屋の廊下でペンキの片付けをやっている最中に見えた。

「牛タンって、大先生さぁ。高橋と笑い堪えるの必死だったんだから」
「しゃーないから筆談で笑ってた」
「知らないですよ!第一、根府川さんって誰だし」
「あー、あの綺麗な人か。俺が死んでるの発見して岡野が解体しちゃったよ」
「…思いっきり絡んでんやん。それバレたらやばいんとちゃう?まぁ、僕、その話知らんし」






殴られている少女は必死に耐えながらも、殴る男の目を見て話そうとしていた。
繋がらない瞳を哀れと感じたのは私だけではないはず。まるで幼い頃のあの衝撃
のフラッシュバックが実際に現実に起こっているなんて、
だけど、私は紛れも無くそこにいた。







「牛タン食べました?」
「えぇ、まぁ。……何で知っとるんですか?わしん事調べました?」
困惑気味に岡野がそう答えると、その刑事は、広島の方ですか、とニコニコ笑っていた。
「同じ喋り方をする人を知っているもので、つい」
岡野は驚いた。その刑事の口から、根府川の名前が出て、解体した事がバレてしまったかと。実際は違った。誰かはわからないが、失踪届を出したようで。
「失踪した人の半分くらいは死んでるんですよね、実は。もしかしたら根府川さんも死んじゃってるのかも」
「……あの、寝に帰っても…」
今日の肉体的、精神的疲労は辛いものがある。しかも、あのバラバラ散布事件の後だから、余計に相手が警察という事もあり、神経を張らなければならない。つまり、岡野は限界に近かった。スーツケースを両手で押さえ込むようにして体を支える。そろそろ腰が痛くなってきた。
その様子に気が付いた刑事は、「ああ、すみません、ホントに。何かあったら教えて下さいな。お疲れのようでしたし、ホント」
刑事は皆こうなのだろうか。岡野にはあの刑事の喋る言葉、一言一句が棘のようにチクチクと刺さった。疑われてはいないだろうが、これでまた、彼は大きな大きな溜息を吐く。


この文句は明日にでも、別所に言おう。何かしら知っているはずだ、と狭いエレベーターの中で誓った。








出張と言えば仙台でしょ。





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