戯言仮

□ケムリ4
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恐ろしい。僕は今、此処で逃げてしまえば、一緒になると思った。
近くに演奏会があるという事で練習のために借りていたスタジオ、そこで、僕は恐い状況にいる。元々、スタジオ主と仲が良かった僕は、空いているというで無料で使わせてもらっている。一番奥の部屋に居た僕は周りの音も聞こえず、唯自分が弾いていたバイオリンにだけ集中していた。そんな時、ヘッドフォンからぶつ切りにしか音が聞こえなくなり、不快な音に僕は苛立ちながらも、ヘッドフォンを外し、ケースの中から替えの物をだそうとしていた時。防音の部屋に、とても響く低温の振動が隣からやってくる。誰かがこんなに強くバスドラムでも叩いているのだろうかと廊下に出て、隣の部屋を覗くと、まず、足が見えた。倒れている。おかしいと思って中に入ろうとドアに手をかけた瞬間、また爆音、何かが破裂したような。それと小さな子供の悲鳴が遥か遠くのように微かに聞こえた。
動く陰を見つけ、咄嗟にしゃがんで隠れている自分がいて、この状況はやはり異常だと改めて認識する。ガラス越しに恐らく煙草の煙だと思われる紫煙が一瞬写った。とにかく中の事が知りたくて、管理室に中腰姿勢のまま行くと、あの部屋の音声が聞こえるスイッチを押し、イヤフォンを差し込んだ。

「お母さん倒れちゃったねぇ。どうしたい?」
「やだっ!お母さんと一緒がいいよ!美嘉はお母さんとずっと一緒にいるの!」
「だってさ、お父さんよ。美嘉ちゃんはお母さんがいいって」
「美嘉、逃げろ!」
「つまり、お母さんと同じになりたいんだよねぇ、美嘉ちゃん」
「……五月蝿い。別所、もういい」
「岡野、待て!」

岡野という誰かを制止する声が終わるか終わらないかぐらいに、僕は耳をつんざくような雑音を耳に受ける。これは銃声だ。奥さんは死んだんだ、さっきの足は奥さんの足。唯の取り立てじゃないと直ぐにわかった。あの部屋には少なくとも四人と一つの死体があるはず、殺し屋らしきのは二人、そしてこのままだと死体は少なくて二つになるだろう。

「美嘉ぁ!!」
「男の涙程汚いもんはない、嗚呼、汚い。別所、業者呼べ」
「…はい」
「さぁて、どうするよ。愛する娘の妻も前の前で死んだ。後はやる事一つじゃろ?早よ捺せ。それと、煙草は吸っとるか?」
「……吸わない」
「そう、なら肺が高く売れる。吸ってればよかったんにな。自分の物が一つだけでも残せたのに」

それ以上、僕は何も聞いていない、見ていない、知りたくもない。荷物を纏めると、僕はトイレの窓から外に出た。隣のマンションの非常階段に乗り移ると急いで地上に降り、自転車を漕いでスタジオを後にする。
僕は恐ろしい程に臆病であった。自分が見つかる事を恐れ、自分があそこに居た形跡を恐れ、死体を恐れ、死を恐れ、男達を恐れた。
振り返る事もしなかった。
遠く、遠くで警察のサイレンが鳴っている。僕を探しているのかもしれないという妄想だけが、僕を焦らせる。


「直之ー、お前のバイオリンケース、煙草臭いんだけど」




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