戯言仮

□ケムリ5
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俺は事務所の角にある本棚と机に挟まれるような位置にパイプ椅子を持って行き、本来座るべき方向とは逆向き、椅子の背に覆いかぶさるように座っていた。何故こんな位置を選んだのかというと、窓の前で、俺が見はじめて何本目かわからないが、吸っては床に落とし、踏み潰し、タイルに黒い煤をつけている男の視界に入りたくないためであった。彼は頗る機嫌が悪い。煙がこちらまでやってきて、思わず噎せそうになるが、気をひきたくないので何とか我慢する。
そんな彼がいきなり振り返った。その約一秒後に誰かが事務所のドアを開ける。髪が長く、背の高い男であった。控え目に彼に会釈すると隠れていた右手を引っ張り出す。その手には頭から髪が無くなりつつあり、よれよれのスーツを着た、いかにも気弱そうな中年親父。俺はこいつをリストラと呼ぶことにする。

「野崎、遅い」
「すみません、岡野さん。こいつ家の庭で隠れてて」

少し面倒事なので、あまり俺は関わりたくなかったのだが、彼に呼ばれたので、渋々リストラに見える位置に出ていく。勿論、渋々なんて顔には出していない。野崎はリストラを中に投げ込むと逃げられないように扉を閉め、その前に仁王立ちしている。彼は本来の半分程になっている煙草をリストラの首に押し付けた。肉が焼ける音がした。あー、痛いよな、それ。同情はしていない。
リストラがあまりの熱さに冷たい冷たい床を何回か転がる。それを見ていた彼はリストラの体を足で止め、また新たに煙草に火を点けて、煙を肺に沢山詰め込み、リストラに向けてそれを吐いた。それを掃おうにも掃えないリストラが小さくもがく。
そこでリストラは初めて俺と目があった。そして何かに気付いたように「あ」と声をあげる。俺は何も知らないし、何も気付いていない。

「別所くん、だよね」

俺も含め、彼も野崎も疑問に思う。彼がリストラから足を退け、襟を掴み、無理矢理立たせた。
「別所、知り合いなん?」
俺の今までの人生に名前を教えた奴が何人いたか。まずそれを数える事から始める事にする。餓鬼の頃、が一番多かっただろうか。君付けした奴はその頃関わった大人のみ。
「あ」
気付かなければ、俺がこんなに苦労しなかったのに、思い出してしまった。リストラは孤児院にいた男だ。
その俺の様子を彼は見て、口角をあげる。俺はそんな彼の顔が大嫌いだ。

「なら別所、金にして来い」
「俺ですか」
「嫌なら、此処でぶち抜く」
「……」

思い出さなきゃ、別に死んでも構わなかったのに。思い出とは記憶とは時には厄介な物になる。
ゆっくりリストラの目の前にしゃがみ込み、対峙する。目が助けてくれと訴えているが、俺はそれに答える事は出来ないと告げると、酷く落胆した顔になった。

「しかし大きくなったなぁ」
「俺が肩車やってあげてたのに、大人になったら君の方が背が高かったんだな」

俺は出来るだけ優しく、リストラに語りかけた。此処でこいつの死体は見たくない。それを解っててこの役を俺にやらせる彼の神経はやはり何処か可笑しい。

「…あんたくらいの年齢だったらまだ詐欺が出来る。それで何とか金を作ってきてくれないですか」
「……詐欺」
「じゃないと、嫌な事になる。あんたにとっても、俺にとっても」

何とか説得しようと俺だって試みた。だけどリストラは頑なにそれを拒む。良心が痛むとはこの事。思い出さなきゃよかった。彼は俺とリストラを飽きる事なくニタニタと笑いながら見ている。しかし、ある時、持っている煙草を床に落とし、俺を退けて、リストラに言った。「さぁ、別所に従い命を少し長くするか、自分に従い命を無くすか、どっちがええ?わしはどっちでも、まぁ面白い方がええかな」それでもリストラは首を縦に降る事はない。
「そう、じゃ勝手に選ぶけぇね」
野崎に合図をすると、彼はまた窓の前に戻る。俺がリストラに視線を移したのをわかったのか、彼は俺に歩み寄り、耳打ちした。
「子供は高く売れる」

物凄く、彼の息は煙であった。俺はこの煙が大嫌いである。




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