戯言仮3

□八つ当たり
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空が駄々をこねている。そして今にも泣き始めそうな厚く黒い雲に対して、男は何だか気分が高揚していることに気付いた。明らかに死に近付く世界を下から俯瞰。



「…やぁ」
「よぉ」

目的の女は珍しく浴槽にお湯を張り、体育座りで顔を水面スレスレに顔を近付け、うずくまっていた。そして全く抑揚のない萎れた声。
男は浴室の扉を開け、洗面所から問い掛けた。
「どーした、ワシが彼じゃないから落ち込んどるのか?」
「…煩い」
その返答を聞いて、この女は元気だと確信すると男はケラケラと笑い、彼女の薄暗い住み処に響く。
「毛」
「は?」
「人間にもっと毛があればよかった。大きければよかった。脂肪が多くてもよかった。氷河期のスピードに進化が勝てなくて、退化かよ、アホらし。服は嫌だ。和服とかコルセットとか締め付けて何が楽しいんだ馬鹿」
女は顔をお湯に浸けて息を吐いた。随分と長く顔を入れており、どうやらゆっくりしっかり体の空気を全て吐き出したいらしい。女の赤い髪の毛を掴んだ男はそのまま上に引き上げる。「抜ける」と痛そうに顔を歪めた。
「拗ねるな、阿呆。寝た方がいいけぇ、風呂あがれ」
男が投げたタオルを受け取るとまず髪の毛をガシガシと拭いて、湯舟から出た。幾ら慣れていたとしてもやはり目のやり場に困る。男は廊下に出て、携帯の受信メールの整理をしながら彼女を待った。
「薬」
脱衣所の扉と壁の隙間から手だけが伸びてくる。軽くそれを叩き落とすと本体が出てきた。
「服着てベットに入ったら渡す」
溜息を吐く音が聞こえたかと思うと彼女は灰色のロングTシャツを一枚だけ羽織り、男の隣に並ぶ。男が一瞥して何も言わないと、女はそのまま奥の自室へと入っていくので、彼もそちらに続いた。

相変わらず、女の部屋は足の踏み場がない。沢山の新聞紙やら書類やら図鑑やらで床が埋め尽くされている。原色が表紙の本があったので男が手に取り確認すると、それはサンスクリットの辞典だった。
窓の近く、少し周りより高くなっている場所が彼女のベットだが、既に原型はない。その上にも読み掛けであろう本がベットの半分の面積を占領し、布団がぐしゃぐしゃになって足元に置いてある。
「ワシが掃除してやろうか?」
「結構です。薬」
よっぽどそれが欲しいらしく、ガサガサと上にあるものを全て床に落として、今大人しく布団を肩まで被って待っていた。男はコートの両ポケットに手を突っ込み、左の方から錠剤を20個ほど、右からは何かが書かれている紙切れを一枚出す。
「知ってる名前だね」
女は彼の左手のそれを奪い取り、水無しで一錠飲んでしまう。呆れた男はベットの端に座って、話始めた。
「やっぱり知ってた?まぁいいけぇ、それより、お前」
「あー!言わなくていい。病院通えってか?外に出たくないから白玉呼んでるんじゃん」
「良くないの!来ないと検査出来ん。しかも今居候がいるけぇ。一人にするとあいつは何をしでかすかわからん。とにかく今度は来い」
「女か?」
布団を頭まで被ったため、声が篭って聞き取りづらい。
「女の子。ロリコンって歳ではない」
「拾ったんだろ」
「んー、そうじゃね。ワシん家の裏側で誰かが派手に殺しをやってな、その子はそんな中で寝とった」
つまらなそうに女が相槌を打つと、男は女の肩に手を当てて、「彼に現を抜かしてもよいが、ちゃんと体は大切にせぇよ」と声をかけ、女の部屋を後にした。




「病院って痛いじゃん。しかもどろどろした空気流れてるし。想像しただけでも頭が痛くなってきた」





彼女はこの空のように不機嫌だった。自分は何かいけないスイッチを触ってしまったのかと思い返しても、特に何もない。抗生物質を持って行くのが遅くなったから不機嫌だったとは考えづらいし、彼女の動物達の様子もおかしくなかった。
どうやら雨が降ってきたようだ。顔に冷たい物を感じる。男はアパートの階段を降りる足音を止め、目の前の路地であった彼女のお気に入りの人物を思い出す。

あれか。

彼は警察らしい。それでは俺の存在もあまり知られて有利な事はない。俺が来るから、彼を帰さなければならなかった。
ジーンズの尻ポケットから煙草とライターを出す。
第一何で俺が彼女の家まで来ないといけないんだ。彼女が俺の所まで『めんどくさい』の一点張りで来ないからこういう事になるんだろ。それで俺に当たられても困るというものであり、もう追求しても始まらない。途中で考えて頭が痛くなってきた男はそこで思考を停止した。
次第に雨粒は大きくなる。男は階段の下に何本か捨てられている透明傘を見つけ、1番状態が良いのをさして帰る事にする。

「ワシ、料理作れんからな。あいつ作れるといいな」

傘の領域を過ぎた煙はあっさりと強くなっていく雨に掻き消された。



 『裸族と闇医者』



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