戯言仮3

□名が在る存在
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それは西新宿の人波から天に連れ出されるような声だった。

『××××』

「…あ、ぁ……」
いつから名前を呼ばれていなかったかなと考えても、何も出てこない。幼い頃の自分はもういないんだ、と殺してから名前は不要なものになっていた。
覚束ない足取りで窓に駆け寄る。カーテンを開けた先には隣のビルしかいないのは随分前からわかっているのに、硝子にあいつが映ってそうで。案の定、薄い光が壁に反射して真っ暗な部屋を灰色にしただけだった。寝ぼけてベッドから落ちなかっただけでもよかったと強引に夢を閉じようとする。第一あいつは私の名前を知らないじゃないか。本当の名を知っているやつが一人ほどいるが、あいつとそいつには全く接点はないし。

あいつが私の名前を呼ぶなんて、幻想だ。
あの声の主が、あいつだったら、なんて。

伸びをして、部屋の片隅で脅えている品種改良された小さな兎に人参片手に会いにいった。相変わらず、茶色のモルモットと共に寝ていて、私を赤い目で睨んでくる。こいつの目は機能していないといいな。白子症は目に何かしらの障害を与える事が多いみたいだ。しっかり私とこのケージが見えていない方が好都合。世界を見なくて済むのなら盲目に私もなりたかった。

昨日ファイルを整理してよかった。今日会いに来る輩にすぐに渡す事が出来る。一日分のプリントと誰かからもらった漫画を浴槽に持って行った。また別の黒い兎が後を付けてくるもんだから、浴槽に入れてみる。

今日来るんだっけ。黒兎を元の場所に運びながら鈴木の言葉を思い出す。別に来なくても何にも変わりはしない。ただ夢をあいつの顔を見たら思い出すだけだ。嫌々。

『××××』

びっくりして振り返ってもあいつはいない。誰かこの幻聴を治してくれないか。消え失せるか現実になるかの二択だが、今の私には選べるほど、あいつを知らないし私のことも知りえない。
玄関から猿がケージを引っ掻く音が聞こえる。私が死んだら、此処の動物を本来いるべき場所に戻そう。人間に馴れた動物の末路を何処かで見守る世界にいたいから。

次第に握力が消えて、兎が部屋に放たれた。ぴょんぴょんと跳んだ先にはアルビノの兎の前。私は悪いとは思いながらも黒兎をケージの中に入れ、そのケージを白兎の隣に置いた。

あいつと酷く似ている別所からもらったコンポの電源を付けたら、ギターの音が鼓膜に来た。インストゥルメント。契れる。
浴室にやっと篭る体制が出来た。後は人が来るだけ。





後はあいつが来るだけ






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