BLEACH

□Tender darkness
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夜の、深い闇があたりを埋め尽くす。
自身の手さえも不確かな闇の中、それでも決して揺るがない、確かなもの。

  Tender darkness

深夜、私室へと続く廊下をいつもよりも少し急ぎ足で歩く。
部屋の前で従者を下がらせた白哉は、そっと静かに襖に手を掛けた。

襖を開けるとすぐに、広い部屋の片隅で小さくなっている肩が目に付く。
煌々と明かりの灯ったままの部屋で、文机に広げた書物を枕にして眠っている、華奢な背中。

「…そんなところで寝ては、風邪をひくぞ」
呟いてみるが、そんな声で届くはずもない。

すやすやと眠る妻に、白哉はそろりと足音を忍ばせて近付いた。

夜もすっかり更け、時刻はとうの前に日付をまたいでいる。
帰りは遅くなると告げた白哉を、それでも眠らずに待ってくれていたのだろう。
結果としては眠ってしまっているが、それでもその健気さが伝わってくる。

揺り起こせば飛び起きそうなものだが、緩やかに上下する肩を眺めれば何となくそれも出来なかった。

長いまつげが白い頬に薄い影を落としているのを、隣に腰を降ろしてじっと見つめた。
文机の寝心地も、体勢も、心地よくはないであろうに、ぐっすりと眠っている。

さらりと流れる髪にそっと手を伸ばせば、僅かにむずがるような仕草をして、また小さく寝息をたてる。

「緋真」

小さく、囁きかけるような声で呼んでも、当然返事はない。
それでも白哉は、「緋真」、ともう一度呼びかける。

覚醒を促すのではなく、ただ、彼女の名前を呼びたかった。

―――緋真。

胸にこみ上げるこの切なさも、温かさも、彼女のくれたものだと知っている。

自分はこの手で、彼女を守り切れているだろうか。
彼女の全てを、守ることは出来ているのだろうか。

自分が感じるほどに、彼女もここで、幸せを感じてくれているだろうか。

「…白哉、さま…?」

まるで心の内でも読んだかのような絶妙さで、すみれ色の瞳が瞬いた。

一瞬はね上がりかけた鼓動をすぐさま落ち着けて、白哉は緋真の髪を撫でた。
あらゆる世界の全てのものの中で、緋真だけが白哉の心に熱をもたらす。


「起きたか」
「…はい、あの、いえ…」

ゆっくりと身体を起こした緋真は、ぱちぱちと数回瞬きをした。
まだよく分かっていないようなぼんやりとした表情と、ともすればまた閉じてしまいそうな瞼が、どうしてこんなに愛らしく映るのだろう。

「文机が枕では、落ち着かぬであろう」
よく眠っていたようだが、とからかいながら、膝裏に腕を差し入れて、背中を支えて抱えあげる。

「きゃ…っ」
突然の浮遊感に緋真が声をあげるが、構わず白哉は奥の寝室へと向かった。

「っ、あの、ごめんなさい私、眠ってしまって…!」
腕の中で慌てたように身を捩るが、そんな事で揺らぐ腕ではないと自負している。

「先に休んでいろと言ったはずだが」
「待っていられると思って…ごめんなさい」
しゅん、とまるで叱られた子どものように俯く横顔は少女のようである。

けれど、窺うように見上げてくる少し潤んだ瞳は、誘っているかのような艶やかさを含んでいて。
自覚しているのかいないのか、もう一度伏せた瞳はもう少女には見えない。


「あの…」
申し訳なさげに瞳を伏せたまま呟く緋真を、歩きながら白哉は覗きこんだ。
僅かに視線を上げた緋真と瞳が交わると、緋真はほんのりと頬を染め、遠慮がちに口を開いた。

「…おかえりなさいませ、白哉さま」

言って、照れたようにふわりと微笑む。
新婚でもあるまいに、いつまでも初心な妻。

―――どうして、これを愛おしく思わない事が出来るのだろう。

いっそ、抱き上げた腕のままにきつく抱きしめて、滅茶苦茶に壊してしまいたい。
この腕に閉じ込めて、どんな雨風にもさらさず、誰の目にも触れさせず、ただ二人で。

沸き起こる衝動をどうにか押しとどめて、白哉は「今帰った」とさも平然そうに答えた。

壊すよりも守りたい。
閉じ込めるよりも、強く儚いその心が自由であってほしい。

幸福は、彼女そのもの。



寝室へ足を踏み入れて、ぴったりと襖を閉じる。
隣室の眩さが嘘のように、細い明かりすら漏れないその完全な暗闇の中で、腕の中から不安げに伸ばされた手が肩に触れた。

「白哉さま、その…明かりを…」

たとえどんな暗闇だろうと、それこそ瞳を閉じていてさえ、気配を感じられないようでは護廷十三隊の副隊長は務まらない。
しかし、まるで果ての無い深淵のような闇の中では、必然と視界を奪われる。

それでも、穏やかにさえなれるのは。

「明かりなどなくとも、私にはお前がよく見える」
この腕の中に、確かなものがあると知っているから。



細い身体を横たえてもまだ、離れる事を恐れるかのように華奢な手が白哉の肩に触れていた。

こんな小さな事が、冷めない熱を白哉に積み重ねていくと、きっと彼女は知らない。

「わたしにも…」

ぽつりと、ためらうように呟かれた声に、緋真の髪に触れていた白哉の手がぴたりと止まった。

「…わたしにも、どんなに暗くても…白哉さまが、よく、見えます」

らしくもなく、白哉は呼吸を止めて息をのんだ。
やはり彼女はおそろしいほど、白哉の心を揺さぶってくるただ一人。

仕草や表情、言葉や温もり、心と体の、そのすべてで。


深い闇も、悪くない。

二人きりで閉じ込められた、互いだけがすべてのこの闇の中なら、自分の利己も許されるような、そんな気がしてしまう。


小さく触れるだけの、柔らかな口づけが知らせてくれる。

まだ終わらない、長い夜の始まりを。




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