BLEACH

□One Day
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その日は朝から気持ち良い程の晴天で、庭の椿が鮮やかに色づいていた。

色とりどりに盛られた朝餉の膳を持ったまま、まだ少女といえる年齢の新人の女中はその見事な庭に見入った。
さすがは名門朽木家のお庭だわ、と溜息をついたところで、後ろから厳格な声がした。

「これ多美、何をしているの。はやく膳をお持ちしなさい。」
「ひゃっ」
短い悲鳴をあげて多美が振り返ると、朽木家の女中頭がきりりと眉を吊り上げて、隙の無い物腰で立っていた。

「も、申し訳ございませ…」
「ご朝食が冷めてしまったらどうします。早くなさい。」
「っ、はい…!」

だっと駆け出そうとして、やはり背後から「これ」と静かな叱りを受け、多美は慌ててすり足に変えてその場を後にした。
さすがは女中頭、何十何百といる女中や侍女の中で、まだ新人である自分の名までよく覚えているものだ。
多美は壮年の女中頭の顔を思い浮かべながら、この館の主夫妻のもとへと急いだ。


朝餉の冷める前に、そして主人たちが席に着く前に、準備を整えておくのが仕事だ。
本来なら主人の私室近くに入るような仕事はベテランが受け持つのだが、季節の変わり目の今は仕事も多く人手が足りない、という事で、多美はたまたま給仕の仕事を振り当てられた訳である。

この館の主は四大貴族の一、朽木家ご当主の白哉様と、その奥方様である緋真様。
多美が朽木家に奉仕するようになってひと月余りだが、多美はまだその奥方様のお顔を拝見したことがなかった。

旦那様は、お見送りの列の端っこから何度かお見かけしたことがあったが、清家様のような重役や、女中頭のような上級召使でもない、ただの新人女中がまじまじとお姿を見る事も、ましてお声を聞くなんて真似は出来るはずもなく、今朝がまるきり初対面になるのだ。

もちろん相手は貴族の中でも最高位である朽木家の当主夫妻だ、給仕役の女中など気にかける訳もないことは分かっている。
だからこれは多美の一方的な対面になるのだが、類い稀なる美貌と才覚を称賛される当主と、その方が奥方にとお選びになった緋真様は、一体どんな方なのだろう、と多美は緊張もそこそこに胸を高鳴らせていた。

緋真様のご身分があまり高くないという噂は、この屋敷で勤め始めてすぐに耳にしていた。
だからこそ気になる…と、少女らしい好奇心で多美は進める足を心持ち速めた。



朝餉の支度を、先輩女中と一緒に大慌てで終えた頃、まるで膳の支度を待ってくれていたかのように障子が開いた。

そうして現れた凛とした気配に、多美は息をのんだ。
一瞬思考が停止して、それから慌てて居住まいを正し、頭を下げた。
二人分の気配と、衣擦れの音が静かに席に着く。

――これが、朽木白哉様と、緋真様…――。

多美は知らず知らずの内に、両手を握りしめていた。
なんて、なんて高貴な気配なのだろう。
いや、高貴な方達なのだから当たり前なのであろうが、初めて触れた高尚な気配に、多美はすっかり気圧されていた。

お姿を拝見したいだなんて、愚考にもほどがあった、なんて図々しい事を考えてしまっていたのだろう、と多美は唇を引き結んだ。

だから、開いた障子の向こうで先輩の女中が自分を呼んでいる事も、当主夫妻が席に着いたら自分は退室しなくてはならない事も、多美は全く失念していた。
そしてすっと立ち上がった緋真が、自分を覗き込むように膝をついた事にも、気が付かなかった。


「あの…、どうかなさいましたか?…顔色が…」

「っ!?」

突然声をかけられた多美は、がばりと顔を上げ、ついでにひっくり返りかけた。

しかもそれが奥方様と気付いた多美はさらに体を後ろに退き、しかしのけ反った事でバランスを崩し、思わず…緋真の打掛の衿を、掴んでしまった。

後ろに傾く体、掴んだままの緋真の衿。
自分の手に引かれて、覆いかぶさってくる緋真の体。

なんてほっそりした方なの、なんて場違いな事が頭をよぎった。

「きゃっ…」

悲鳴すらあげられない多美の代わりに、緋真が小さな悲鳴を上げた。
倒れ込む、と多美はギュッと目を瞑る。


―――しかし、畳にぶつかる衝撃も、緋真の重みも一向に感じられない。

数秒の後、多美はそっと瞼を開けた。


「何をしている。」

「…あ、白哉様…」

ご当主の厳格そうな声、ほっとしたように呟くのは、緋真。


これは夢だろうか、誰か夢だと言ってほしい。

何故天井が見えるのだろう。

いやこれはいい、確かに私は後ろにひっくり返った。
問題なのはこちら、私に打掛の衿を掴まれたままの緋真様と、私の腕と緋真様のお体を支えている、旦那様―――…。


硬直している多美と緋真を起こし、白哉はちらりと多美を見た。

「離さぬか。」
言われて、多美は自分が緋真の衿を掴んだままでいる事に気付き、慌てて手を引っ込めた。

白哉が緋真と一緒に多美を助けたのは、多美が緋真の衿を掴んで離さなかったからだと気付く。
多美はそのまま動けず、ただ怯えたように白哉を見た。

なんて事をしてしまったのだろう。
奥方様の衿を掴んで、それどころか一緒に倒れ込みそうになるだなんて。
無礼極まりない、不敬で追放だってありうる。

震える体を叱咤して、多美はがばりと頭を下げた。
冷汗が体中から溢れ出すのを感じながら、多美は畳に額を押し付けた。

「申し訳…っ、申し訳、ございません……っ!」
許されないだろうと思った。
まさか、朝餉の支度だけでこんな失態を犯すなんて。
朽木家に仕える女中にあるまじき行いだ、新人も古株も関係ない。

ひたすら謝り倒す多美の肩に、そっと誰かの手がかかる。
びくりと震えた多美の肩を、優しく宥めるように撫でる、細い手。

驚いて微かに見上げると、屈み込んで、心底困ったように眉を下げた緋真がいた。
「顔を上げて下さい。…私がいきなり話し掛けたりしたから、驚かせてしまいました。」
想像のどれとも違う対応に、多美はぽかんと口を開けた。
震えはぴたりとおさまっている。

「これくらい何ともないですから…どうぞ気にしないでください。」
やんわりと微笑まれて、多美は不意に泣きたくなった。

粗相を許されたからだけではない。
穏やかで、静かな、こんなに優しい人を、多美は流魂街でも瀞霊廷でも知らない。
涙を堪えようと唇を噛んだところで、再び冷静な声がした。

「緋真。…隣の部屋を」
「はい、白哉さま。…あの、先にお食事、なさって下さいませ」
当主夫妻の間で交わされたのはたった一言の会話だけれど、お互いそれで通じるものがあるのだろう。
頷いた緋真が、そっと多美の腕を取った。

「っ、ひ、緋真様!?」
「少し手を擦り剥いています。消毒なさってくださいな」
驚く間もなく立たせられた多美は、襖を開いた先の隣室へ、緋真に連れられて移動した。


ぱたんと閉じた襖の音で、多美はハッとなって膝をついた。
腕をつかんでいた緋真も、つられてしゃがみこむ。

「申し訳ございません…!あの、後はその、自分でやります…ので、どうぞ、お戻り下さい…!」
緊張でどもりながら、多美はひたすら頭を下げた。
緋真の困ったような溜息が聞こえてきて、ついに怒られるかもしれない、と多美は肩を跳ねさせた。

しばらく続いた沈黙のあと、多美の手に、覚えのある細い手が触れた。

「少し沁みるかも知れませんけれど…」
そっと押し付けられた冷たく濡れた感触に、多美は思わず「ひゃっ」と言って顔を上げた。

すぐ目の前には、優しげに微笑んだ緋真。

少し悪戯っぽくクスリと笑ってから、再び消毒液の染みた布を多美の手に押し当てた。
かなり間の抜けた顔をしているのだろうと自覚しながらも、多美は緋真から目を逸らせなかった。


お叱りも、追放も、鞭で打つ事もしないの?

―――どうしてこんなに優しいの。


多美はここに来る前、流魂街のある町の宿で下働きをしていた。
先輩女中の口利きでこうして朽木家に雇ってもらえるようになったのだが、時たま宿に来る貴族は、流魂街の人々を散々けなしては愉悦にひたっているような人達ばかりだった。

この朽木家の使用人にも下級貴族、中流家庭の子女子息は大勢いて、その大体が多美のような流魂街出身者を嘲笑ったものだが、緋真にはそんな気配は全く感じない。

むしろ震えるくらいの高貴な気配に、うっかりあんな粗相をしてしまうほど。
多美は失礼だと思いながらも、じっと緋真を見つめていた。


最後に化膿止めを塗った絆創膏をぺたりと貼って、緋真は「これで大丈夫」とほほ笑んだ。

「あの…申し訳ございませんでした、私…」
これ以上何をどう詫びれば良いか分からず、多美はまた泣きそうになった。
そんな多美に、緋真はぽつりと呟いた。

「…わたし、妹がいるんです。」

何の事か分からず、多美は首を傾げた。
このお屋敷に妹姫がいらっしゃるなんて聞いた事が無かったから、きっとご実家におられるのだろうと推測して、頷いた。

「もうずっと…そう…ずっと会っていないのだけれど…今頃きっと、あなたと同じくらいになっていると思うの。」
どこかであの子が、こんな風に働いているかもしれない。

そんな緋真の思いなど知る由もないのだが、多美は何となく納得した。

厚かましく恐れ多いけれど…妹姫と同じ年頃の自分を、その妹姫に重ねられたのだろう。
緋真の表情に陰りが差したから、会っていないというのは何か理由があるのだろうと察せられた。

そっと自分の手に視線を落とせば、絆創膏の貼られた擦り傷が、とても尊く大切なものに思えて、多美は知らず知らずの内に微笑んでいた。

「緋真様…あの、ありがとう、ございました」
思いきって口を開くと、緋真はこれまでで一番の笑みを浮かべてくれた。



―――白哉様のお気持が、分かるかもしれない。

自分のような下賤の娘がこんな事を考えてはいけないと、そう思いながらも、多美はぼんやりと考えていた。
きっと白哉様は、ご身分なんて本当にどうでも良かったんだ。

緋真様が、緋真様だから…こんなにお優しくて、尊い方、どこを探してもここにしかいらっしゃらない。



すらりと襖を開けて入ってきた白哉に連れられて緋真が退室するのを見送って、多美は立ち上がった。


この屋敷であの方の為にすべてを尽くして生きていこうと、心に誓って。




***FIN***



 

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