草紙(短)

□白い幻影は雨にぬれる
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声にならない声がする…。
  
夜中。漆黒の帳が都全体を覆い尽くしている時間。
安倍邸の一角の部屋、その部屋の主である昌浩はうっすらと瞼を開いた。

―――何も見えない。

灯は寝る時に消したので、部屋の中は当然のことで真っ暗だ。
重い瞼を先程よりわずかばかり上げて、真っ暗な室内に視線だけを走らせる。
   
「――――――――っ」
 
微かに身じろきしただけで腹部に激痛が生じる。

「―――――――――」

息をつめて、気の遠くなりそうな痛みをやり過ごす。
痛みのあまりに涙が出るかとも思ったが、その考えとは裏腹に昌浩の瞳は渇ききっていた。
虚空を彷徨う視線は、―――しかし何も捕らえることができない。

―――何も見えない。
               あの白い姿はどこだ。
真っ暗な部屋の中であろうとも、漆黒の闇が続く大路であろうとも、あの寒い、永劫に続くかとも思われる暗黒の世界の中であろうとも、あの白い体駆は――夕焼けの瞳はいつでも見えていたのに。そばにいてくれたのに―――――。

なのに見えない。あの暖かなぬくもりが、息づかいが感じられない。

『ん?どうした?』

気遣わしげな少し高めの、あの声が聞こえない。
見つめる先など存在しなく、在りはしないものを見ている瞳が冥い光をはじくだけ。

『失せものの相が、でているぞ』

気をつけた方がいい。と注意してくれた人がいた。
注意をしてもらったのに、されていたのに失してしまった。
いつも傍らにいるのが当たり前で、それが自然のことで、だから失してしまうなんてちっとも思わなくて―――――。

夢を見た。物の怪がどこか遠くへ行ってしまう夢。
不安のあまりに目が覚めて、近くで眠っていた物の怪をあわてて抱き寄せた。
そんな自分をなだめてくれた物の怪。
呼んだら応えると言った。

『―――もっくん!!』

心からのその叫び声は声として形を成さず、喉の奥でわだかまる。
浅い、少し速めの息づかいしか漏れない。
その名前を何度呼んだことだろうか。
何度呼んでもそれは心の中で反芻し、声になる前に霧散する。

あれ以来、心の傷口からは血が流れ続けている。
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