A

□彼シャツ
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一日のスケジュールを終えたボクは予定帰宅時刻に寸分の狂いもなく、自室兼スタジオへと帰ってきた。


「ただいま」
「う〜ん…更新まだかなぁ…」


…?
いつもなら笑顔でボクを出迎えるハルカが、今日はボクのパソコンの画面をじっと見つめて何やら呟いている。


「後日公開の後日とは一体いつなんでしょうか…」


この様子だとどうやらボクの帰宅に気が付いていないみたい。
ボクの帰宅にすら気が付かないほど、彼女は何を見ているんだろうか。
ハルカの背後に近づき、耳元でもう一度声をかけてみる。


「ねぇ、何を見ているの?」
「ひゃあっ」


驚いた彼女が耳を手で押さえながら体を仰け反らせたもんだから、椅子から落ちそうなり、ボクは寸での所で受け止めた。


「あ、藍…くん、い、いつお帰りに…」
「2分35秒前」
「そう、ですか…あの、その…お帰りなさい」
「ただいま。椅子から落ちそうになっているボクのお姫様?」


ハルカを再び椅子に座らせてから、ボクは日課であるただいまのキスを頬にする。


「藍くんが驚かすからですよ…っ」


頬を少し紅潮させた彼女は、恥ずかしそうに乱れた前髪を整えながら小さく反論してきた。


「別に驚かせてはいないよ。きちんと帰宅の挨拶はしたし、気が付かなかったのは君の落ち度でしょ」
「う…」
「で?ボクの帰宅に気が付かないほど君は何を見ていた訳?更新、とか後日公開って言っていたけど…」
「いえ!なんでもないです!」


ボクがパソコン画面に目を向けようとした矢先、ハルカが慌てて腕を広げディスプレイを抱きしめるようにして隠した。


「何でもないというのならどうして隠すの?言っている事と行動がこの上なく矛盾しているよ」
「な、なんでもないんです、本当に!」


それにそんな風に隠されたら余計気になるし。


「ふぅん。ボクに隠し事なんていい度胸だね」
「隠し事じゃないです…!」
「じゃ、見せてよ」
「それは出来ません!」
「ふぅ…君がボクに適う訳ないんだから、さっさと見せた方が時間の無駄にならないと思うけど」
「み、見せられません…!」
「そう」
「……きゃんっ」


一向に画面を見せる気配を見せないハルカの両脇腹を指で軽く突く。すると、彼女の体は奇声と共に大きく跳ね上った。


「君、確かここ弱かったよね」
「や、やめ…、っ」


ちょんちょんと突き続けるボクからハルカは、涙目になり身を捩らせながらも必死にディスプレイを死守している。そこまでして見せたくない画面って何なの?
そんなことを考えていると突如、鉄壁と思えたガードが崩れた。


「こ、降参ですぅ〜…」


大きく息を乱したハルカがゆっくりとディスプレイから離れたのでそこに映し出されていた画面を見ると…


【シャイニング事務所アイドルプロデュースTシャツ発売決定!】(注)公式HPより
抜粋)


と書かれていた、ボクが所属する事務所の公式HPだった。
うん?どうして彼女がこのHPを見ていたんだろう?というか、そもそも隠すようなやましいページじゃない。
それに作曲に必要な資料とは到底思えないし、彼女がこのページを見る必要性があるのか些か疑問だ。


「これ、ボク達の事務所のHPだよね」
「はい…」
「どうして作曲家である君がこれを見ているの?」
「そ、それは…」


言いにくそうに下を向くハルカに、ボクは顔を近づける。


「それから、隠す必要がないページなのに、なぜ隠していたの?」
「えっと…あの…あ、藍くんと…」


彼女は隠すことを諦めたのか、先ほどより顔を真っ赤にさせながらポツリポツリと話し始めた。


「藍くんが着ているものと同じTシャツを…買って着て、そ、その…こっそり【彼シャツ】だって…やりたいなって…」
「…【彼シャツ】って何?」
「え!?」
「彼シャツってどういう意味?」


ボクのデータにない言葉だったので素直にそう尋ねたら、ハルカは自分の両頬を押さえながらチラリとボクを見て【本当に知らないんですか?】と言ってきた。
知っていたらわざわざ聞かないよ、と答えると【そう、ですよね】と力なく返してきて。


「彼シャツというのは…彼氏…さんのシャツを着ることでして…」
「うん」
「か、彼氏さんのシャツを着ることは女子たちの夢というか憧れなんです…」
「ふぅん…つまり、君はボクが着ている、ボクがデザインしたTシャツを買って【彼氏のシャツを着ているんだ】って感覚を味わいたいというわけ?」
「はい…あの…呆れました…よね?」
「うん、呆れた」


ボクが即答すると、彼女はうなだれるように再び俯いてしまって。
そりゃ呆れもするでしょ?だってボクはハルカの彼氏だよ?
目の前に彼氏のボクがいるのに、わざわざボクがデザインしたTシャツを買ってこっそり一人で着て喜ぶんだよ。


「そんなことをしなくても、ボクのシャツを着たらいいじゃない。君はボクの彼女なんだからさ」
「それは…!着てみたいですけど恐れ多いというか…」
「…彼氏に恐れ多いって…本当君って変わっているよね」


そう言いながらボクは着ているパーカーを脱いでTシャツ姿になる。
その着ぬ擦れの音が気になったのか彼女がゆっくりと顔を上げると、もともと大きな瞳をさらに見開かせて。


「その、Tシャツ…もしかして!」
「そう。ボクがデザインしたTシャツ」


そのTシャツをも脱いだボクは上半身裸になり、ハルカは目のやりばに困ったのか顔を横に向けてしまった。


「はい、ハルカ。バンザイして」
「え?」
「いいから腕を上げて、バンザーイ」
「は、はい!」


顔を横に向けたまま手を上にあげたハルカに、ボクは先ほどまで着ていたTシャツを彼女に着せてあげた。それからボクはというと、脱いだパーカーを羽織って。


「君が着るとぶかぶかだね」
「!」


彼シャツというものに夢や憧れを抱いているらしい彼女の洋服の上から、ボクのシャツを着せてみた。
それでもサイズか大きいのかぶかぶかしていて、なんか…イイ。
何がいいのかと聞かれると返答に困るんだけど…これが所謂【萌え】というやつなのかな。


「か、か、か…彼シャツです…!」


顔を横にむけていた彼女だったけど、今はボクが着せたTシャツを食い入るように見つめている。


「正真正銘【彼シャツ】、だね」
「藍くんの香りがします…」
「ボクが今日一日着ていたんだから当たり前でしょ」
「わ、私が藍くんのシャツを…!夢みたいです!」


嬉しいんだろうなっていうのはヒシヒシと伝わってくるんだけど、彼女がTシャツばかりを見ていて何だかつまらない。
少しだけイラついたボクは彼女の顎を掴んで上を向かせ、唇にやや強引にキスをした。


「…ふ…ぅ」
「ん…、意外。君から舌を絡ませてくる日が来るなんて…ね。Tシャツを着せた効果かな」


唇を少しだけ離してそう言うと、とろんとした眼差しでボクを見るハルカは、これ以上ない満面の笑みを浮かべてこういった。


「藍くんのTシャツを着ているだけなのに抱きしめられている感じがして、とても幸せです」


これ…無意識に言うんだから本当罪作りだよね。

そんなことを言われたら常に着せていたくなるんだけど。




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