ボクは、幽霊だ。
どんな理由で死んだのかは思い出せない。ボクがどんな人間で、何をしていたのかも。ただ、生前──名前というものに固執していたことだけは、ぼんやりと覚えている。ボクには、名前というものがなかったのだ。
ボクと一緒に死んだヘッドホン──幽霊のヘッドホンから流れるのは、限りなく破壊音に近い──雑音で構成された幽霊のメロディー。そこから、自分がロクな人間じゃなかったんだろうということを知った。なにか、背徳の臭いがしたのだ。
幽霊になったボクは、物に名前をつける仕事を任された。
いじめだと思う。ボクは名前を与える力を得たけれど、ボク自身に名前をつけることは許されていない。つけようとしたらメチャクチャ苦しむらしい。つけた後ならまだしも、つけようとしたら、だ。しかももう死んでるから死ねない。終われない。
フザケンナ。どっちみち、名前がつけられないじゃないかヨ。
ボクは気を晴らすために、ボクの物に名前をつけた。
幽霊のヘッドホン。そこから流れる幽霊の雑音。幽霊のシャツ。幽霊のコート。幽霊のズボン。幽霊の靴下。幽霊のパンツ。幽霊の靴。
でも、それらを纏う霊体に名前はない。精神だけがある。
ところで──幽霊は、生き物に触れることができない。
今回の名づける対象を見るのにいい場所を探して──ある学校の音楽室に入ったボクは、そのことを思い知らされた。
テレキャスターを片手に数枚の楽譜とにらめっこする制服の女の子。ウェーブのかかった黒っぽい髪をしている。
ちょっとイタズラしてみようと手を伸ばしたけれど、すり抜けた。仕方ないカラ楽譜を見てやル!と勝手に覗き込んだら、"ノイズ"というタイトルが目に留まった。
「ノイ、ズ……?」
よく見れば、その楽譜だけ涙の跡がある。はっとして女の子を振り返ると、ほんの数秒の間に泣いていた。字が汚かったのは、泣いていたからか。音楽のことはよくわからないけれど──泣き止むのを待てないまま曲を書き出したんだろう、ということが見てとれた。
無意識のうちに頬へと伸びていた手がその顔をすり抜けて、ショックを受ける。この子が幽霊になってから触れられても、それじゃあ遅い。でも、きっと天国に行けるだろうから、その時になれば確実に涙は止まるだろう。
でも、そこにボクはいない。
ボクには、天国にも地獄にも行けないだろう──という漠然とした実感があった。行き先が違うのなら、関わるべきじゃない──女の子に背を向けて、屋上へと歩き出す。
さっきの"ノイズ"というタイトル、曲につけるような名前とは思えないけれど、なかなかどうして気に入った。名前じゃ駄目なら、記号にでもするか──からから笑いながら、屋上への階段に足をかけた。
サテ──あのハイカラ色に染まる空をなんて名づけようカ。
耳を劈くように鋭いテレキャスターが聞こえてきて──ボクはヘッドホンを首にかけた。