『よかっ、た……よかった……っ』
彼女の双眸からこぼれ落ちていく大粒の雫を、俺は見逃さなかった。そして彼女から紡がれたか細い安堵の言葉も、確かにこの耳に届いていた。 目の前でうずくまる名無しは顔をぐちゃぐちゃにしながら泣いていて、ただひたすらに『よかった』と口にする。そんな彼女の姿を見て、なぜか俺はその場を動けなかった。傷なんてもうとっくに癒えているはずなのに、その胸の奥に僅かな違和感を覚える。今まで感じたことのない、妙な違和感だった。
「…………、」
気づけば俺は、未だに涙をこぼし続ける彼女へと手を伸ばしていた。そのままゆっくりとその濡れた頬に触れ、指で涙を拭ってやる。途端に名無しの肩がびくりと跳ねて、驚いたように顔を上げた。涙を溜めた目は大きく見開かれて、やがて俺を捉える。そんな彼女の瞳とぶつかりもう泣くなと言ってやるつもりが、しかしながら俺はそれを躊躇ってしまった。
もう少しだけ、俺のために泣いていてほしい。と。 初めて味わうこの感覚に、そう思わずにはいられなかったのだ。
けど次の瞬間名無しを泣かせたことにより憤怒した団ちょに俺は数十メートル先まで吹っ飛ばされてしまい、残念ながらそれは叶わなかったわけだ。だから団ちょは過保護だってんだよ。
* * *
団ちょに殴り飛ばされ、その落下地点であった岩の上でもしばらく俺は動けなかった。無論傷は既に完治しているはずだがどうしても先刻の名無しの泣き顔が頭から離れなくて、どうしたらいいかわからず仕方なく空を見上げていた。この広い空を見ていれば自然と忘れるだろうと思ったがなかなかそうもいかない。ぽろぽろと涙をこぼして静かに泣いていたアイツの姿を思い出しては、胸の奥が潰れるような何とも言えない感覚に襲われる。この感情をどう言葉にしていいのかわからない。しかし、それでも確実に言えることは、あの時確かに俺は嬉しかったということである。
ずっと一人だと思っていた。 “アイツ”のいないこの世界で永遠に俺は一人なのだと、ずっとそう思っていた。
けど名無しは、あの小さな体で俺を一生懸命支えようとして。あの弱々しい手でしっかりと俺の手を掴んで。震えながら、それでも必死になって俺の名を呼んでいた。会って間もない、こんな信用できるともわからない男を、だ。ほんと、お人好しにも程があるだろう。俺の知っている人間はもっと薄情なはずだった。それなのに。
「…………くそが、」
嬉しすぎて、にやける。 長い間白黒だった世界が、再び鮮やかに色づいていく感覚だった。団ちょと再会してからは楽しいこと尽くしでそれなりに満足はしていたつもりだったが、これはまったく別物で。最初は弱くて使えねぇただの掃除係、俺にとってはどうでもよかったはずのアイツを、どうしても手に入れたくなってしまって。そう気づかされた途端、急に胸が騒がしくなった。 きっと俺は今、名無しに会いたくてたまらない。 早く、俺のモノにしたい。
そうと決まれば急いで店に戻らなきゃなと、身体を起こそうとした時だった。たったったっ、と小ぶりな足音が聞こえてくる。こんなところに来るなんて一体誰だ?そのまま何となしに上体を起こし俺は足音のする方へと目を向けた。
「……! オマエ、」
しかし、次の瞬間俺は思わず目を見張ってしまう。 なぜならそこにいたのは、紛れもなくさっきまで泣いていたはずの女で、たった今俺が会いたいと思った女で。不意を突かれる彼女の登場に俺は唖然とするばかりだが、その女、名無しは俺を見つけるなりぱたぱたとこちらへ駆け寄ってきた。また胸が騒ぐ。俺はゆっくりと身を起こし目の前の名無しと向き合った。
『あ、あの……』 「ん?」
最初に口を開いたのは名無しだった。俺を見上げるその瞼が真っ赤に腫れていて、また少し嬉しくなる。俺は自然と口角が上がるのを感じつつ、彼女の言葉の続きを待つことにした。すると名無しは怖々といったふうに俺の様子を窺っては、何かを確かめているようで。まぁそんなの、ひとつしかねぇだろうけど(本当にお人好しなヤツだな)。
「言ったろ、俺は不死身だってよ♪」 『! で、でも、あの時メリオダスさん容赦なかったし、ばき、って、すごい音聞こえて、私び、びっくりして……』 「カッカッ、団ちょに殴られるくらい何ともねェよ」 『メリオダスさんもそう言ってたんですけど……でもやっぱり、心配で、』 「…………」
それで、お前はこんなに息切らしてまで俺のところに来たってのか。 あんなことされて、まだ俺を心配してくれんのか。
ほんとに、コイツは。
『あっ、すすすすみません、とんだ出過ぎた真似を!』 「…………」 『勝手に勘違いしちゃって、迷惑でしたよね!ほんとすみませんでした!わ、私これから夕飯の支度があるので、お先に失礼しま』 「待て」
慌てて去ろうとする名無しの腕を掴んで引き寄せる。すると呆気なくバランスを崩しこちらへ倒れ込んだ彼女を、俺は腕の中に閉じ込めた。すっぽりとこの中に収まってしまう彼女は少し力を入れれば壊れてしまいそうなくらい、儚くて。
そして何より、愛おしく思えた。
『!? え、ああああのっ、バンさん!!?』 「あーホントいいわ、オマエ」 『、え?』
腕の中で名無しがピシリと固まるのがわかる。見れば、彼女の頬がその腫れた瞼と同じくらい真っ赤に染まっていて、思わず笑みがこぼれた。俺は少し体を離して右手を名無しの頬へあてがう。そのまま彼女の瞼を親指でなぞればまた名無しの肩が大きく跳ねた(なんでこんな、いちいちツボに入ることするんだろうな)。
『っ、あの……?』 「……俺の方こそ悪かったな、さっきは泣かせちまって」
まさか俺が謝ると思っていなかったのか、名無しは数回瞬きを繰り返しやがてふるふると慌てて首を横に振った。その仕草ひとつひとつがまた面白くて、ああ離してやりたくねぇなと、そう思った。
久々に見つけたんだ。俺を見てくれるヤツを。 俺を“人間”として扱ってくれるヤツを。
だから、これだけは譲れねぇ。
「これからヨロシクな、名無し」
(──コイツは、俺のモンだ)
不死身男の標的
(あの、バンさん?) (ん?) (そろそろ……は、離して頂けませんでしょうか、) (あー……ムリだわ♪) (え!?)
─ ─ ─ ─ ─
※やんでれではございませんよ(重要)
2014.12.27.
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