:天空の庵:

□聖徳太子
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{聖徳太子}

実質的な日本の建国者で、当時日本は六世紀半ばまでは国家としてのまだ形はなかった。
太子は摂政となり国を統治、仏教を採用した。
「憲法十七条」を制定し、予言書「未然本記」を書く。

(05.10.22)  
朝方、太子の臨終に謁見した。
長い廊下を母と共に進んでいくと一番奥の間の廊下に神妙な面持ちの人達が座っていた。
部屋に通されると、床に長身の恰幅の良い男が臥せっていた。
その時目の前に「太子」と浮かんだ。
堀の深い顔立ちは外人の様であり、とてもあのお札にある優しげでひ弱な太子とは似ても似つかない風情だった。
下腹が張り、明らかに病末期と思えた。背後には龍神が見守っていた。

翌日さっそく本屋で文献を調べると、太子は暗殺か病死かわからないが2月22日に亡くなったとあり、 2メートルにもなるそのお方は鼻は高く、目は鳶色ユダヤ人のごとき、とあった。
その時の私の服装は2002年2月22日正装して撮った写真の服だった。
あれは、何だったのだろう?  臨終の場に立ち会わされたとはどう云うことなのか、時々妄想か霊夢か分からない状態となる。 
殆どそれは後になって、又何年かして納得できる。メッセージだったりする。

*太子の母、間人ハシヒトは蘇我から逃れ丹後に来た。
丹後には鬼伝説があり、鬼と云えば生まれた時から角が生えていると云われる、天皇も一目おく名家、賀茂族のこと、役小角も賀茂氏だが、その反天皇勢力だったその鬼と呼ばれる人々がなぜ太子を信仰していたのか?
丹後では間人をタイザと読む。
古代オリエント語のタイガシュ、タイは太陽・ガシュは鳥、タイガは朝鮮語だと「混血」という意味になる。
間人と太子の住居の場所は「岡成」といわれ、岡は傾斜、ナルは国土又は太陽の事。
私の旧姓は「市岡成美」、それで太子の臨終の場に母と居合わせたのだろうか。
丹後の大県主は「海部氏」で「物部氏」のルーツ、「海部氏」とは天の橋立の篭神社つまり元伊勢で神武天皇以前に倭の地にいた天孫族ニギハヤヒから始まるもので、「海部氏」が天皇家より古い家柄であることがわかった。
太子の御魂が後に鬼と呼ばれた人々、役小角、空海、日蓮に引き継がれたのかもしれない。*

この現在進行形のストーリーでは役行者、空海、日蓮がさり気なくサポートしていのを感じる。
例えば「弥勒の霊ライン」は神社、仏閣、湯治場が多く、大島や熱海伊豆山神社は役小角、中伊豆の弘法の湯は空海、身延山の日蓮などの足跡がある。

地質学者によると日本を二分するこの霊ラインはフォサマグナが走っていてそれを「塩の道」と云う。
*フォサマグナは一億五千年前白亜期に出来た幅400キロの日本海に抜ける、塩堆積ロードが圧縮によりくねった尾根をいう、ドイツ地質学者によりつけられたネーミングで意味は「肉体の門」、だそうで、なんのことやら。*

又一緒に行動する女性達の名が光子さん、光江さん、光さん、ひかるさん、秦子さん、藤原さん(富士原)と縁のある名なのもおもしろい。

‘‘西照氏も石和と云う地名の西の海の天照。
‘‘江崎哲雄氏も八重洲と云う地でクリニックを開業、江崎はスサノヲのスサとも読める。
‘‘成美は成=太陽、美=羊に大で生贄(太陽の大なるイケニエ)ととれる。
東京に生まれ育ちながら、出雲小学校、出雲中学校、八潮高校(校章は勾玉)を卒業した。

暗号のように、気付こうと気付くまいと。
人にはそれぞれ言霊により、生まれた時から名や地名で宿命付けられた人生があるのかもしれない。
それは自分の人生の意味を理解して宿命に逆らわずその中で生きることなのだろうか?


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