テキスト(SS)

□春に一番近い場所/まりみな
2ページ/8ページ

 それからしばらくの間はお互いに無言で、シンクを弾く水の音と、その音に掻き消されそうになりながらも微かに聞こえるテレビからの話し声、時折、子猫の鳴き声が代わる代わる耳に届いた。
 二人きりだというのに密着したままの重苦しい空気。渦中にいるみなみは、きっとあたしなんかよりも居た堪れない気持ちを抱えているはずだ。
 夜分に押し掛けて気まずい雰囲気作って何やってんだろあたし。これじゃあほんとにただの迷惑なやつじゃないか。
 まるでホットミルクに張った薄膜のように、不確かで、頼りなく、ゆらゆらと浮かんでいるような感覚があたしを襲う。
「すみ、ません」
 深くついたため息に、なぜかみなみから謝罪の言葉が漏れる。
「ごめん。あたしがめっちゃ不快にさせてんのに謝らせて。大人げなくてほんとごめん」
「そんな、不快になんてなってないよー。だからまりこさまも謝らないでよ」
 あたしのダメな部分を優しさで包み込んだような口調でみなみは言う。
 二十六にもなって五つも年下の子に気を遣わせるなんていい大人が最低だ。こんなことをするためにここへきたわけじゃないのに。
 本来の目的を完全に見失い、またため息をつきそうになった。でも、みなみが気にするから、吐き出さずになんとか喉の奥へと押し戻す。
「……みなみ。今日の握手会、どうだった?」
「へ? ど、どうって?」
 唐突な質問に、弾かれたように顔を上げる。目が合って、けど、今度は逸らされずに済んだ。
「いっぱいお祝いしてもらえた?」
「あー、そういう。うん、メンバーからもだし、ファンの人からもいっぱいおめでとって言ってもらった」
 今日、四月八日はみなみの二十一回目の誕生日で、偶然にも握手会の日程と重なっていた。
 訪れたファンの大多数は彼女におめでとうという祝福の言葉を紡いだのだと思う。何百回と言われたであろう言葉を噛み締めるようにみなみは笑って、その嬉しそうな顔を見ているあたしまで胸の辺りが温かくなった。
「そっか。そりゃよかった。いい誕生日になったじゃん」
「うん。二十一歳はもっとがんばれそーって思ったよー」
「さっそく火傷したけどね」
「そ、れは、まりこさまが。か、かわいいとかいきなり、言うからやろー……」
 すかさずつっこみを入れると顔を真っ赤にしながらそっぽ向いて、不服そうにほっぺたを膨らませた。
 ああ、こういう仕草はどことなくにゃろに似ている気がする。
 恋人同士がだんだんと似てくるように、ユニットにもそういう傾向があるのだろうか。
「可愛いよ、みなみは。ほんとのこと言っただけじゃん?」
「うそやー。みな男とか言って真っ先にからかってくんのまりこさまやん。可愛いなんて思ってたら男扱いなんてせんやろー」
 そっぽ向いた横顔は不貞腐れたまま。その声色はどことなく拗ねるようで、それだけで胸がきゅっと締めつけられる。
「だって、さ。可愛いみなみはひとりじめしたいじゃん。みな男はみんなのものでもいいけど、みなみは自分だけのものにしたいというか」
 それに対してみなみは何も言わない。ただ、ほんの気持ち程度、身体を強張らせたような気がした。
 多少オブラートに包んではみたけど言葉の意味に気付いたのだろうか。窺った横顔がやや困惑気味で、眉尻が下がっている。

 レコ大を獲ったら告げたかった言葉。色々な出来事が重なって、結局まだ何も言えてなくて。
 でも、今このタイミングで言ってしまうと確実に荷物を増やすことになる。
 そう思ったらどうしても躊躇ってしまって声になってくれなかった。

 おもむろに水栓レバーを下げると勢いよく流れ出ていた水は止まり、蛇口からの残り水が水滴となってシンクにぽたぽたと等間隔で零れ落ちてゆく。
「こんだけ冷やせば大丈夫かな」
 みなみの首に掛けられたままのタオルを抜き取って冷たくなった左手を撫でるように拭いてやると、火傷した部分に布地が掠めたのか瞬間的に顔を顰めた。
「痛む?」
「だ、大丈夫、ちょっとじんじんしただけ」
「しばらく鈍い痛みが続くかもしんないから定期的に冷やしなね」
「ん、そうする」
 大丈夫なんて言ったけど、内心はめちゃくちゃ痛がっているのが見え見えだ。意地っ張りというか弱みを見せないというか。こんな時まで強がらなくてもいいのに、というのが率直なあたしの意見。
 普通なら同世代よりも年上に対しての方が弱い部分や甘えを出しやすい気はするけど、みなみの性格上それはきっと無理なのだろう。
「さーて。帰るわ。寝るとこだったのに邪魔してごめんね」
 名残惜しいのを隠しつつ、みなみをそっと押し放す。湯たんぽみたいに温かかったから、暖房の掛かった部屋の中にいるのに何だか急に肌寒くなった。
「え、か、帰るって? 今来たばっかなのに。高橋に用があったんでしょ?」
 リビングに置いてあるバッグを取りに歩き出すと、引き留めるようにみなみがあたしの腕を掴んだ。
「あ」
 言われて用件を思い出す。軽く動揺しているのか肝心なことを忘れるところだった。
 ふと壁に掛けられた時計を見ると、まだ、ギリギリ四月八日内。
 ――これぐらいだったら、荷物にはなんないよね。
 時間を確認してから、掴まれた方の腕をぐっと自分の胸に引き寄せた。油断していたみなみの身体は抵抗することなく再びあたしの腕に収まる。
「やっぱあったかいねぇ。このままずっとぎゅってしてたいな」
「んー……今日握手会でなんかあったんスか……?」
 あたしの心を探るようにそろそろと背中に回される腕。行き場がなかったのか服の裾をきゅっと掴まれて、びっくりした心臓が大きく跳ねた。
 ――ああ、くそ、ほんとずるいやつ。
 苦しくなった胸を押さえるように一層強い力で抱きしめても、鼻腔を擽るみなみの匂いと熱の籠った温もりを感じて、苦しさは増す一方で。今にも吐きだしてしまいそうな言葉をぐっと呑みこんで、落ちつかせるように、ゆっくりと深く息を出す。
「まりこさま、苦、し……」
「ごめん。でもこれだけ言わせて」
 これ以上抱きしめたら本当に折れてしまうんじゃないかと思った。でも、そんなことには構ってられないぐらいに気持ちが昂ぶって、うまく力を抑えることなんて出来なかった。
 浅く呼吸を繰り返すみなみの吐息が服の上からでもわかるぐらいに熱を孕む。くぐもって喘ぐ声が耳を掠めて、理性と感情の狭間で掛けられている揺さぶりを耐えるのに、全神経が彼女を抱きしめている腕に集中した。
「もう何回も言ったけど。お誕生日おめでとう、みなみ。生まれてきてくれて、ありがとう」
 出逢った時からずっと好きだったよ、とは言わなかった。違う、言えなかった。
 軽く流すことも出来ないほどに不器用なみなみの、困り果てて、雨が降り出しそうな顔が容易く想像出来てしまったから。
「……それだけ。今日が終わる前にもう一度言いたかったから。乱暴なことしてごめんね」
 ふっと力を抜くとみなみは小さくむせて、その背中を擦ってやりながら、ゆっくりと身体を引き剥がした。

 誕生日に握手会が重なって、今までにないぐらいにたくさんのおめでとうをもらったことだろう。もちろん、あたしも他のメンバーと一緒にお祝いしたし、おめでとうだって顔をみるたびに言った。けど、それだと他のおめでとうと一緒くたになってしまうし、たくさんのおめでとうに埋もれてあたしの言葉もその他多数の内の一つにすぎなくなると思った。
 たった一言のごくありふれた言葉。だからこそ少しでも彼女の記憶の内に留まるようにしたかった。それが単なる自分のエゴだということもわかっていたし、たくさんのおめでとうを言われた彼女にとっては、もうなんてことのない言葉になっていたかもしれない。
 それならせめて、他の人の言葉を上書きして最新のおめでとうにしてやりたい。
 握手会を終えて自宅に戻ってからふと思い立って、気が付いたらタクシーに飛び乗ってみなみの家まで駆けつけていた。
 どう考えても完全にひとりよがりの自己満足ってやつだ。
 本人の気持ちなんてまったく無視してしまうあたりが、恋って噂通りに盲目なんだなと思ってしまった。
次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ