テキスト(SS)

□one step/にゃんみな
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 それからどのぐらいの時間が経ったのか――
 テーブルに伏せっているうちにいつの間にか眠ってしまったようで、気が付くと賑やかだった楽屋は物音ひとつしない閑散な空間と化していた。いくつかの照明が落とされ、室内はやや薄暗い。このまま微睡みに溺れてしまいそうになりながら、着替えなきゃという気持ちを勝たせてのんびりと身体を起こす。
 その時、右側から何かが落ちるような音がして誘われるように身体を捻った。
 ――ブルゾンだ。どこかで見た覚えのある、カーキ色のブルゾン。スタッフさんが気を遣って掛けてくれたのだろうか。
 三月の半ばに差し掛かったとはいえ今日は一層冷え込んでいるから、早く返しにいかなければ貸してくれた人に風邪をひかせてしまいそうだ。
 そうして席を立とうとしたタイミングで、今度は身体の左側から微かな息遣いと衣服が擦れるような音が聞こえて一瞬息を飲んだ。
「びっ……くりさせんなよもぉ……」
 真っ先に目に飛び込んだのはストレートのロングヘアにアイボリーのニットプルオーバー。そのせいか、ぱっと見でこの世の者ではないと思ってしまった。過去に霊体験をしている身としては尾を引きまくっているのもあって逸る動悸が半端ない。
 そもそもなぜにゃんにゃんが私の隣で寝ているのか。
 無防備に晒している寝顔を見ているだけで余計に胸の高鳴りは加速する。
 そういえば才加が何か企んでたっけ。
 しかし、周りを見渡しても張本人の姿はどこにもない。
 結局何をしたのか聞きそびれてしまったけど、にゃんにゃんがここにいるということは彼女の言っていた『釣り』とやらが成功したということでいいのだろうか。
「とりあえず着替えるか……」
 誰に言うまでもなくひとりごちて、さっきまで掛けられていたブルゾンをにゃんにゃんの背中に掛けてあげた。スタッフさんの上着だと思っていたけど、どこかで見た覚えがあったのは彼女の私物だったからだ。
 それにしても気持ち良さそうに寝てるよなぁ。
 だらだらと着替えながら、物音を立てても一向に起きる気配のないにゃんにゃんをまじまじと眺める。
 本体以外の個人の仕事も多いから睡眠時間はきっとそんなにとれなくて、いつも眠そうにしているのがにゃんにゃんの印象だ。それでも仕事に対しての愚痴や文句は一切こぼさない。そういうところで本当にプロ意識が高い人なのだ。
 そう思うとこのまま寝かせてあげたい気持ちも芽生えたけど、今日はメンバーとご飯を食べに行く話で盛り上がっていたような気もするから、起してあげた方が親切なのかなとも思った。
 でも――間近で寝顔を眺められるチャンスなんてめったになくないか?
 揺り起そうと肩先に触れた途端、ふいに邪な考えが頭を過ぎった。
 ――いやいや、いくらなんでも気持ち悪すぎやろ。
 ――どうせ起きないんだから寝顔堪能するぐらいいんじゃね?
 俗にいう天使と悪魔の言い争い。周りに人がいないせいもあってか、どうしても悪魔の囁きに天秤が傾いてしまうわけで。
「な、眺めてるだけやし」
 自分に言い聞かせるように言葉を吐いて、もう一度椅子に腰掛けた。さっきより縮めた距離に心臓が音楽を奏ではじめる。
 別に寝込みを襲うなんてやましいことをしようとしているわけではないし。可愛い寝顔を一人占めしたい。ただそれだけのことだ。
「あ……」
 姿勢を正して見つめること数秒。まるでそれを阻止するように、テーブルの上に置いてあったにゃんにゃんの携帯が鈍い音を立てながら薄闇の中でキラキラと光った。
 やばい、起きちゃう。
 そう思ったら咄嗟に掴み取る以外の術が見当たらなくて、手の内で震える携帯を咎めるようにぎゅっと握り締める。
 もちろん私の小さな手じゃ両手を使っても押さえ込むことなんて出来なくて、指の隙間から覗くサブディスプレイに表示された『大島優子』の文字に心臓が大きく跳ねた。
「五分だけ……五分だけでいいからにゃんにゃん貸して。ごめん」
 届きもしない謝罪とともに携帯を開いて電源ボタンに親指を乗せる。応答保留中の文字が浮かんで、刻まれる秒数が3秒になったところでもう一度電源ボタンを強く押した。
 沈黙した携帯の待ち受けには彼女の飼っている二匹の愛犬が表示されている。
 たとえ待ち受けであろうと他人の携帯を覗き見しているような感覚にとらわれて気が重くなったけど、正直なところほっとした。そこに映し出されたのが優子とのツーショット写メだったらどうしよう――嫉妬心丸出しで本気でそう思ったから。
 それから間もなくして、再び携帯が震え始めた。開きっぱなしのメインディスプレイに出たのは『篠田麻里子』の文字。
 優子に次いで麻里子さまからということはご飯メンバーからの電話だろうか。
 待ち受けに表示されていた時間は七時ちょっとすぎ。収録が終わったのが五時半頃。いつになっても店にこないにゃんにゃんの所在を確認するための電話のような気がする。
 どうせ切ったって他のメンバーから次々に着信が入るのだろう。それを無視し続けることはきっと私には出来ない。
「……もしもし?」
 声を出した途端に、にゃんにゃんは眉を顰めながら小さく身動ぎをし始めた。
 ああ、もう絶対起きるやん。神様ってほんと不公平だ。
『――みなみ? あれ? あたし掛け間違えた?』
 電話口の向こうで疑問符が三つ。私が麻里子さまの立場だったとしても間違いなく同じ質問をすると思う。
「んーん。にゃんにゃんなら高橋の目の前で寝てるよー。麻里子さまからだったから勝手に取っちゃった」
『ええ? にゃろも寝ちゃったの? みなみが起きるの待ってるとか言ってたクセに自分も寝ちゃったらそりゃ二人ともこないよねぇ』
「にゃんにゃん、私のこと待ってたん? っつか、もしかして高橋もご飯メンバーに入ってる?」
『今日はもう仕事あがりでしょ? 声掛けてないからみなみはにゃろが直接連れていくって起きるの待ってたんだよー』
 身に覚えのない約束とにゃんにゃんが隣にいた理由が繋がった。どうやら私を待っている間に寝てしまったようだ。
 純粋に嬉しい気持ちと、そうじゃない気持ちと。何だか胸がもやもやする。
「仕事はない、けど。今日は遠慮し」
『おいこらたかみなぁ! さっきわたしが掛けたとき電話切ったろー!』
 突然のけたたましい怒鳴り声。言葉を掻き消されて、思わず電話を耳から離した。おそるおそる耳元に戻した時に麻里子さまの声が遠くから聞こえたから、きっと優子が彼女の携帯を奪い取ったのだろう。
「ご、ごめんて! そんな怒鳴るなよ! 通話と間違って電源押しちゃっただけやって!」
『ほんとにぃ? 寝てる小嶋さん独り占めしようとしてわざと切ったんじゃないのぉ?』
 ――さすがというか鋭すぎです優子さん。監視カメラでも覗いてたんじゃないんですかというような口ぶりに心臓が絶え間なく我鳴り立つ。
「ち、ちげーし。優子と一緒にすんなよな」
『小嶋さんと二人きりにしたら何するかわからないメンバーナンバーワンじゃん? てか声上擦ってるし。図星かこら。寝てるのをいいことにちゅーしようとか思ってないだろうなー』
「ばっ……ちゅーとかするかアホ−! なんもせんわ! 今起こそうとしてたとこやし! ほら、起きろよにゃんにゃん! 優子から電話だぞ!」
 優子の言葉にいちいち動揺して、ついにゃんにゃんの肩を大きく揺さぶってしまった。
 小さく上がった唸り声と薄っすら押し上げられる重そうな瞼。その耳元に、まだ何か喋り続けている優子からの電話を押し当てる。
「んん……? ゆーちゃんー? おはよぉ」
 寝起きも手伝ってかいつもよりも五割増しの甘い声に、今すぐ耳を塞ぎたくなった。
 寝惚けてるだけ? それとも相手が優子だから?
 心を渦巻くもやもやがまた少し大きくなる。
「うん……んー? うん、すぐいくー。はぁい。またあとでねー」
 話は終わったらしく、自分の耳元へ携帯を当てると通話は既に切れていた。 
 また画面に現れる二匹の犬の写真。
「って寝るなって! 優子が待ってんだろー」
 携帯に視線を奪われている間にまた目を閉じるにゃんにゃん。相変わらずこの人の寝起きはよろしくない。
「やだぁ……あとごふん……」
「典型的に遅刻するパターンやんそれ。起きろよー私が優子に怒られんだろ」
 ここで寝かせて遅くなったら間違いなく噛み付かれるのは私だ。にゃんにゃんが絡む時の冗談か本気かわからない優子の口撃は時に深く突き刺さることがある。
 どうせ店に行ってもこの件に関して絡んでくるのは必至。めんどくさいし、優子と仲良さげにしてるにゃんにゃんなんて見たくもないし、出来ることなら理由をつけて店には寄らずに帰りたい。
「ほら、早く起きろって。また催促の電話掛かってくるやん」
「だいじょうぶだよー」
 出た、まるで根拠のないお決まりの台詞。
「なにが大丈夫なんだよ。全然大丈夫ちゃうわー。にゃんにゃんと二人でいるだけでやきもちやかれてんのにさ。いい迷惑だよ」
 少し不貞腐れたように言葉を返す。
 それからしばらくの間沈黙が続いたから、ちょっと言い方がまずかったかな、もっと濁した方がよかったかなと自分なりに反省会。思っていることを口に出していい時と悪い時があることを学習しなければいけないなと思った。
「め、迷惑とか、言ってごめん。にゃんにゃんには関係ないのに――って寝てるんかい!」
 静かだったのはとりわけ不快になっていたわけではなく眠っているだけだったなんて。本当にマイペースすぎて、ここまでくると気が張っていてもすぐに脱力させられるレベルだ。
「やきもちやかれる身にもなれよなぁ……」
 自然と重いため息が零れる。
 寝てしまったものは仕方がないし、少し遅くなるという連絡を自分の携帯からしようと思って、手に握ったままだったにゃんにゃんの携帯をテーブルへと戻した。
「――はるながまもってあげるから。もうちょっとさーふたりでいよーよ?」
 まるでそれを見計らっていたかのように、おぼつかない手が私の指をきゅっと掴んだ。決して力は入っていないのに、急に触れられてびっくりした身体が委縮して動くことが出来ない。
「ね、ぼけてる?」
 乾いた喉から吐きだした言葉は笑えるぐらいに掠れている。
「ねぼけてない。っていったらぐあいわるい?」
 まだ少し微睡んでる感じだったけど、それでもさっきよりはまだはっきりとした口調だった。
「そんな聞き方されたら具合悪いなんて言えんし……」
「えー。じゃあほんとは悪いんだ」
「わ、悪くないよ、ほんとに」
 口を尖らせて少し拗ねた様子に、また心臓がドキドキ。擽るように動く手の動きに、心と身体の温度がぐんぐん上昇する。
「そ? じゃあも少しここにいよ?」
「……うん」
 ふっと上がる口角に、拒否という選択肢など取れるわけがなかった。
「立ってないで座ったらー?」
「あ、はい……」
 促すように指を軽く引っ張られる。
「急にかしこまって、変なの」
 変、とか言いながらも見透かしたように彼女は笑う。
 掴まれたままの指から忙しなく動く鼓動に気付かれてしまうんじゃないかと思うと余計に早さは増して、茶化すなよって言葉を返したいのに喉に何か詰まったみたいに声が出てくれなかった。
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