novel・short

□月に降る雨
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 そろそろ寒くなってきた神無月の初旬。



 彼女は雨に濡れていた。









「セレネ、濡れるよ」

 雨が降っているのに傘もささず、空を見上げていたセレネに、シオンは声をかけた。
 月の光でほんのり明るく、けれども雨のせいで視界は悪い。灰色がかった黒の世界にぽつんと立っている姿は、そこだけが孤立しているようで、どこか儚げだった。
 この時期、昼間は半袖で過ごせるけれど、夜になるとかなり冷え込む。雨が降っているなら尚更で、青いワンピースに白の薄いカーディガンを羽織っただけの彼女が雨に濡れている様子は、とても寒そうに見えた。
 彼女の、背中まである真っ直ぐな黒髪もしっとりと湿っており、髪の先からはぽたぽたと雫が落ちている。

「風邪引くから、早く中に入りなよ、セレネ」

 屋根付きの玄関から、少し声を大きくして、もう一度彼女の名を呼ぶ。
 けれど、彼女には、そこから動く気が全く無いようだった。仕方ない、と溜息をついて、シオンは闇に溶け込みそうな黒い傘を広げる。ゆっくりと歩いてセレネに近づき、彼女の数歩後ろで立ち止まった。

「……天泣(てんきゅう)」
「え?」

 近づいた気配を察したのか、セレネは独り言に近い言葉を発した。……やっと口を開いたかと思えば、一言だけ。そのまま言葉を続けるのかと待ってみたものの、再び彼女は黙り込み、じっと空を見つめる。
 ……ん? 月? 何で雨が降ってるのに、月が見えるんだ?

「なあ、何で雨なのに月が見えんの?」
「それが『天泣』だから。雲、見えないでしょう? 雲が見えないのに雨が降ることを、『天泣』っていうの」

 天(そら)が泣いてるのよ、と、シオンの方を振り向いて、静かに言った。
 頬に雨の雫を伝わせて。そして、それを拭わないまま。……こげ茶の瞳が、微かに揺れていた。
 相変わらず降り続く雨粒が、月を映す。ぱしゃ、と彼の足元で、落ちてきた雨が跳ねた。

「天泣って、きっと、天が慰めてほしくて降る雨だと思うの。太陽の力強さとか、月の優しさとかを求めて。だから、厚い雲に邪魔されたくないんじゃないかな」

 落ちる雨粒が、光る。きらきらと、月の光を反射して、光る。気付いてほしくて、――自分に。自分がいることに。
 雨は天が泣いている証。じゃあ、月や太陽は泣かない?


 ……ああ、そうか。シオンは傘を放って、数歩分の距離を詰め、そっとセレネの肩を抱いた。

「天は泣けるけど、月や太陽は泣けないもんな。だけど、セレネは泣けるよ、俺がいるんだから」

 月(セレネ)に降る雨。
 天は、月に慰めてほしい時、雨を涙代わりに落とす。月は黙ってそれを慈しんでくれる。けれど、――月は悲しくなっても、泣けないのだ。慰めなければいけない側だから。
 月にだって、泣きたい時はきっとある。でも小さなことは我慢して……本当に悲しい時だけ、落ちる雨に、誰にも気付かれないように、少しずつ悲しみを溶かすのだ。

「泣きたい時は、俺を頼っていいから。月が泣く時の、雨になってあげる。涙を見られたくないんだったら、隠してあげる」

 セレネが、遠慮がちにシオンの服の裾を掴んだ。
 雨は降り続く。それがいつまで降るのか分からないけれど――。
 頬に落ちて、彼女の悲しみと混じったそれを、シオンの親指が優しく拭う。


 だから、と彼は諭すように続けた。







「泣いてもいいんだよ、セレネ」







 壊れないで、これ以上溢れないでと願っていた涙腺は、ついに崩壊し、彼女の目からは大粒の――それこそ雨のように、涙が落ちていく。
 シオンは何も言わず、強がりで人前ではほとんど泣かないセレネの涙が止まるまで、ずっと寄り添っていた。
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