■桜色・番外編■
□バレンタイン・パラレル
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「お嬢様、桐谷でございます」
ノックをする。だが返事はない。
リビングから出ていかれた気配はなかったのだし、恐らくソファで眠ってしまわれたのだろう。
無理もない。時計の針は深夜1時を回っている。
私は遠慮がちにドアノブに手をかけた。鍵はかかっておらず、小さく軋む音をたてながらドアは何の抵抗もなく開かれる。
主の断りもなく部屋に入る事に一瞬の戸惑いを感じたが、作業の途中で眠ってしまったならば、そのままにしておくわけにはいかない。
私は静かに足を進めると、部屋の中央に目をやる。
蛍光灯はつけたまま、ローテーブルの上には先程までの作業の跡がそのまま残っていた。
その横のソファに沈みこむように座るお嬢様のそばへ近づくと、そっとその顔を覗き込む。
やはり、だ。
小さな寝息をたてている。
「お嬢様、いかがいたしましたか」
もちろん、主を揺り起こすような事はしない。ささやくように声をかけるだけだ。
「ん…」
吐息に近い、かすかな反応が返って来た。
私は言葉を続けた。
「おおむね作業は済んでおいでのようですし、お部屋でお休みください。あとは私が片付けさせていただきますので」
私の声が届いているのかいないのか、お嬢様は軽く眉を寄せたように見えたが、目を開ける気配はない。
どうやら睡魔に瞼を押さえられてしまっているようだ。
これではご自分でベッドへ向かわれることは難しいだろう。
私は諦めてため息をひとつつくと、散らかったままのテーブルを眺めた。
小さな小箱に、赤い包装紙、リボン。そして皿の上に残った手作りのチョコレート菓子。
夕方からキッチンに篭っておられたので、よほど手の込んだ菓子なのだろう。
あとはこの小箱にリボンを飾れば出来上がり。
朝になれば、お嬢様の手から誰かに渡されるのだ…。
「…妬けますね」
私はソファの前に立ったまま、無防備に眠るお嬢様を見下ろした。
愛しい相手の夢でも見ているのだろうか。ふっくらとした頬は桃色につやめき、長いまつげが時にふるふると揺れる。
お嬢様の執事としてお側に仕えたい。それが私の願いだった。…それ以上望むのは罪だ。
「お嬢様、ベッドに参りましょう。お手をこちらへ」
「…うん」
お嬢様は小さく答えたが、まだ覚醒されていないようだ。
ソファに深く腰掛けたままで両手を伸ばし、私の肩に腕を絡ませてくる。私はその身体を抱き上げようと身をかがめた。
頬にかかるお嬢様の吐息からほんのりとチョコレートの甘い香りがした。
私はくらくらとして、吸い寄せられるように身を乗り出してソファに手をついた。
くちびるまで、あと数センチ。
ギシリ、とクッションが沈む音がやけに大きく聞こえて、私は一瞬ひるんだ。
だが。
今日は特別な日なのだ。
「西洋では、バレンタイン・デイは男からも大切な人へ想いを伝える日なんですよ」
そんな言い訳を口にして、私は甘い甘いくちびるを味わった。
=end=