□よみきり短編□
□魅惑〜ゆらめき
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私の前にはにはすっかり冷えたコーヒーが置かれていた。小さなテーブルキャンドルの明かりに照らされ、漆黒の液体が揺らめいて見える。
他の客がいなくなって、看板の明かりを消す時間になっても彼は現れない。
いつもなら、黙ってコーヒーを下げに来る頃なのに。
私はその繊細な仕種と整った横顔を充分に目に焼き付けてから席を立つのが習慣だった。
彼に憧れ、彼に近付きたくて、私はこのレストランに通っていた。
しかし、そうそう通い詰めるほどの甲斐性は私にはない。月に一度、給料袋を握りしめてこの店に来るのがやっとだった。
言葉を交わすのはほんの2〜3言、注文の時だけだ。彼から見れば私はあまたの客の中の一人にすぎないのだから。
私はただ料理を運ぶ彼の姿を見て彼が注いだワインを飲むだけで幸せだった。
あの時までは…。
「コーヒーはお嫌いですか?」
ふいに耳元に飛び込んで来た声に、私はビクッと肩を揺らした。
見ると、銀のトレイを持った彼がすらりとした長身を縮めるようにして、私の顔を覗き込んでいた。
眼鏡の奥の鈍く光る瞳が、私の目をじっと見つめている。
「驚かせてしまいましたね、お許しください」
「い、いえ…少し考え事をしていたので」
彼は私の慌てた様子に小さく微笑み、コーヒーの残ったカップをトレイに乗せる。
彼の指輪がカップのふちに当たって、カチャリ、と微かな音をたてた。
私が彼の優雅な指先に見とれていると、彼は先程の質問を繰り返す。
「コーヒーはお口に合いませんでしたか?」
「あ…いいえ、そんなことは」
「ですが、先月もお召し上がりになりませんでした、その前の月も」
私は恥ずかしさでカッと頬が熱くなった。彼は私の事を覚えていたのか。どうせ記憶になど残っていないと思っていたのに…。
彼は低く響く優しい声で続けた。
「あなたが初めてこの店にいらっしゃってもうすぐ1年になりますが、もうずっとコーヒーをお飲みになっていませんね」
「そ、それは…」
私がコーヒーを飲まないのには理由があった。
ある日、私がいつものように閉店間近に食事を終えて店を出ようとした時。
彼がある客のテーブルにそっとワイングラスを置いたのを見た。
「もう少しゆっくりしていきませんか?」
そう語りかけた時の彼の表情は仕事中には見せたことのないもので、私はその妖艶な微笑みに目を奪われた。そして胸の底から湧いてくるような焦燥感に襲われた。
――私も、特別になりたい。
コーヒーを飲み終えたら食事の時間は終わってしまう。どうか席を立つ前に、あの言葉を言ってくれないか。今日こそは、私を特別な客にしてくれないか……。
「どうかされましたか。お顔が赤いようですが」
からかうような声色に、私は心を見透かされたようでたまらず顔を伏せた。
「いえ!ごめんなさい、もう閉店ですよね」
「ええ、ですが…」
彼は傍らにそっとトレイを置くと、なまめかしいほどの仕種で薬指の指輪を引き抜いた。
「よろしければもう少しゆっくりしていきませんか」
夢にまで見た、その言葉。
今夜、私は選ばれたのだ。
彼の気まぐれの相手に。
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