□よみきり短編□
□睡蓮の城
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大英帝国のとある貴族のお話
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絨毯に膝をつき、執事はうやうやしく主(あるじ)の靴ひもを整える。
精悍な身体を主の足元に縮ませると、豊かに波打つブラウンの髪がはらりと額にかかる。
「どうしても行かねばならないかな、エドガー」
物憂げに言うのは、燕尾服姿のまだ年若い貴族。やわらかい黄金色の髪が窓からの光に眩しく輝く。
ソファに身体を沈め、ひじ掛けにもたれたしどけない姿は、教会のステンドグラスに刻まれた天使を思わせた。
そのあどけなさを残す横顔を見上げると、執事は眼鏡を押し上げて言った。
「今日のパーティはレオ様が主役ではありませんか。さる伯爵家の血筋をくむ名高きお歴々が集まるのでございますよ」
執事は素早くハンカチで手を拭くと立ち上がる。「失礼」と小さく呟いて、主に覆いかぶさるようにして手をのばした。
執事の手は首元で止まり、長い指が乱れたタイを結ぶ。
…主の肌に触れぬように、慎重に。
「トレイシー家の当主として立派に立ち振る舞わなくてはなりませんよ。それが唯一の…」
「…亡き父上の望みだった、だろ?その話はもう聞き飽きたよ」
ソファに身を預け、人形のようにされるがままだったレオは、うるさそうに顔を向けると正面から執事を睨みつける。
口を開けば二言目には「お家のため、亡き父上のため」という言葉しか出てこない、この堅物執事を。
「エドガー、元々おまえは父上の従者だったのだもの。父上の言葉は絶対なのだろう?」
レオが吐き捨てるように言うと、執事は悲しげに微笑んだ。
当主だった父が亡くなったのはレオが生まれてすぐの事だった。後を追うように母も病死した。
その後は遠縁の老人が後見人となって財産を管理し、残された赤ん坊が何の不自由なく暮らしていけるよう手配してくれた。
レオは屋敷の数少ない使用人たちと、この執事に育てられたのだ。
そして16年の歳月が経った。
「お前の大事な父上の遺言だものな。わたしが16になったら称号を継がせ、この屋敷の正式な主とすると」
挑発するように言ってみても執事は固く無表情を装う。レオは執事をじっと見つめた。
血のつながりはないが、エドガーはレオにとってはたった一人の、心を許せる身内だった。
だが、果たして今はどうだろうか、とレオは心の中で毒づく。
(……おまえが16年もの間、親代わりとなってわたしを育ててくれたのは、父上のその遺言があったからだ。
その証拠に、16の誕生日を境におまえは変わってしまったた。わたしのすべてを受けとめて導いてくれたおまえが、よそよそしく傅くだけの、ただの「従者」になった。
どんなに甘えても、わがままを言って縋っても、もうわたしを温かく抱きしめてはくれない…。)
執事が昔のようにレオに寄り添うことはなくなった。常に少年の後ろに立ち、澄ました顔で見下ろすだけ。
…タイを結ぶこの器用な指が、優しく頬に触れてくれればいいのに。
ドキン、とレオは心臓が捻れるような小さな痛みを感じた。
「わたしの言葉なんか、もうおまえには届かないのだろうね」
そう言ってまっすぐに見据えるレオの視線に堪えられず、執事は静かに目を逸らす。
そして掠れた声でささやいた。