短編
□紫苑に紡ぐ
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すう、と吸い込んだ空気はとても冷たくて、さやは自分の身体までもが冷えていくような感覚に陥った。
気の性だという事は重々承知しているが、それでも腕をさする掌を止める事は出来ず、擦り抜けて行く風に思わず肩をすくめる。
「…で?」
「ん?」
目の前でにこりと唇を器用に上げた三郎を忌ま忌ましげに睨みつける。
なんて笑い方をしているのだろう。苦々しげに顔を歪め、さやの脳は日常の風景を彼女の瞼へ映し出す。
そう、こいつの笑顔はいつでも悪巧みを考えているかのような、にやにやと人を見下しているような、そんな笑い方だった。
それが、今は一体全体、どうしたというのか。
ぐっと腹が圧迫されたかのような、息苦しさと気持ち悪さを同時に身体から汲み取ったさやはじっと三郎の笑顔を見つめる。
今のこいつの笑顔はいかにも善人。そう、嘘の顔。これはこいつが化けている不破雷蔵の笑い方。
ああ、苛々する。嘘吐き野郎。
とんとん、と指で苛立ちを表しながら組んでいる腕の力を強くする。
そんなさやに気づいたのか、三郎の口が小さく開いた、が、すぐにすっと閉じてしまう。しかしその唇はすぐに美しい弧を描いた。
「だからな、別れてほしいんだよ。」
「別れる?」
「ああ。」
「何故?」
「何故、だって?」
ははっ。
不愉快な笑い声。
ああ寒い、なんて寒い。
「飽きたからに決まっているだろう?馬鹿な事言わせないでくれ。」
「飽きた?」
「そう、飽きた。もういらないよ。」
「………。」
彼の言葉は彼女のすぐ後ろにぽとんと落ちていった。ひどく空しい音をたてながら、何とも虚ろな弧を描きながら。
ゆらゆらと揺れる視界にため息をついた後、さやは髪をかきあげた。
「わかった。別れよう。」
「ああ、よかったよ。お前が承諾してくれて。喚かれたらどうしようかと思った。」
「それはそれは。ご期待に沿えなくてすまないかったね。それじゃあ。」
すっと横を擦り抜け、長屋への帰り道を歩こうとしたさやは「ああ、そうだ。」とまるでつぶやくようにぽつんと言葉を吐き出してからくるりと顔だけを後ろへ向けた。
「まだ何か用か?」
「用というか…。独り言に近いな。聞き逃してくれて構わない。」
視線を元に戻し、誰もいない真っすぐな道をぼんやりと見つめる。
風は止まず、寧ろまるで吹き付けるかのように段々と強まってきていた。
「三郎との毎日、とても愉快だった。何物にも代えられないほどにね。ありがとう。」
「…。」
「さようなら。」
「ああ。」
「それと。」
「まだ何かあるのか?」
「まぁ。」
固く目をつぶる。ああ、本当、寒い。
「お慕いして、おりました。」
どさり、と。
重たく鈍い音がさやの鼓膜を震わせた。
もう振り返る事はせず、ただただ真っすぐな道を歩み続ける彼女。
ほんと、ばかなひと。
「泣きそうな顔で、そんなこと言われてもね。…鉢屋くん。」
勿論、つう、と頬に滴る雫には気づかないふりをして。
紫苑に紡ぐ
(追憶をきみが)
(望むのならば)