短編

□雫
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あれはいつの事だっただろうか。
遥か昔の記憶。
俺は俗に言われる天使と言われる部類の生き物で、君と一緒に暮らしていた。
けれど、君と僕は禁忌を犯した。
神様に仕える身にも関わらず、君と愛し合ってしまったからだ。
君の羽は黒く染まり、僕の羽は僕を包み込むようにして抜け落ちた。
翼を失った僕は空から落ちて行き、君すらも失った。
君と一緒に楽しく暮らしながら飛べていた頃の記憶は、擦り傷のようには消えてくれなかった。
いつまでも強く深く、僕の心に根付く。






人間というのは、実に早く時間が過ぎて行く。
きっとそれは、空と人間の世界とでは時間の流れが違うからだろう。
僕が人間になってから、約5年が経過した。
けれども、それは人間にとっての時間。
まだ空では一年すら経過していないだろう。
それどころか、1ヶ月が経過しているかどうかも怪しい所だ。
そんな僕の日課は、夜空を見上げることだった。
月が丘に上るようにして空に上がり、そしてその光に見いられた夜光虫達を引き連れて、また落ちて行く。
毎日その繰り返し。
月が登って落ちて行くのを見ているのは、大して苦痛じゃない。
時間が早いから。
でも夜空を見つめている時間以外は特に何もすることがなく、いや、違うな。
何かをしても一切手に付かないのだ。
何をするにも君の姿がちらついて。
そうこうしている間にも、時間は過ぎていく。
けれど僕の中の時間は止まったままだ。
君を失った、あの時から。
僕が居なくても、地球は回り続ける。
でも君が居ないと、僕の朝はやって来ないんだ。
僕の時間は、動き出さない。
だから君を本当に失ったのだとすれば、僕の朝はもう二度とやってこない。
君が居た、あの朝は。


*************


空に居た頃は二人で競争して、人間界に遊びに行っては土と太陽の香りのする草の上に転げ回って遊んだ。
遊び疲れた後は、一緒に森の中で眠った。
何度か喧嘩もしたけれど、それは二人で過ごす永遠の為だった。
永久に続く果てのない未来を、二人で歩いて行くため………。
けれど僕の翼はもう存在しない。
人間となった僕に永遠の未来はもう、無い。
君も僕の隣に居ない。
愛してる。
何度君を思っても、翼の無い僕にはこの想いを、この言葉を君に届けるすべを持たない。
だからこそ、君を取り戻す。
そればかり考えていた。
時間の流れが違う人間界と空。
早くしなくては、僕の身が保てない。
早くしなきゃ、早く君を取り戻さなくちゃ。
時間の流れという名の時の濁流に、僕ら二人を引き離されしまわないように。
僕はポケットから二人で撮った写真を取り出した。
楽しそうに笑う君と、幸せそうな僕。
目を閉じれば今でも、君の声・君の全てを思い出せるのに、思い出の中の君は、同じく思い出の中の僕に笑いかけるだけで、現在の僕には見向きもしない。
語りかけることすら、してくれない。
辛くて悲しくて現実世界の君は居ないのに、思い出の中の君すら遠くて、僕のすがり付くあてはない。
君に想いを伝える為に残った涙すら、あと少し。
けれど、きっとこの想いすら君には伝わらない。
最後の雫が、落ちて行くー…………










その雫が地面に落ちた時、突然夜が弾けたように空に光が飛び散った。
長い長い、僕の夜に、ようやく光が差し込んだ。
長い間感じていなかった光のあまりの眩しさに堪えきれずに閉じた瞼を開くと、そこには人間となった君が居た。


「ただいま」


そう囁いて、君は幾分か小さい僕を大切そうに抱き締めた。


「遅い、よ」
「ごめん」


僕にとっての、5年ぶりの朝がやってきた。




***************




背中にあった翼は、今やもう必要ない。
隣に君さえ居てくれば、人間界だろうが空だろうが人間だろうが天使だろうが関係ない。
僕は君と手を繋いで歩きながら、ゆっくりと空を見上げた。
そこにあるのは僕が一人で見つめていたあの月ではなく、洗い立てのように瑞々しい太陽。
それだけが僕ら二人を祝福するように優しく照らしていた。
翼を無くした僕らは以前のように永遠を過ごすことも大空を飛び回ることもなくなったけれど、僕の隣には君が居るから、君が居てくれるから、限りのあるこれからの人生を大地をしっかりと踏み締めて二人で歩いて行こう。
君の想いを胸に抱き締めながら。
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