藍染さん家シリーズ
□クローバー
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その日は、朝から雨だった。
藍染家長男は8歳の次男の手を右手に、6歳の三男の手を左手に引いて、濡れるのも構わずに近所の川原までとぼとぼと歩いてきた。
「にいちゃん、濡れてる」
弟二人は雨合羽を着せているが、長男は着ていない。
さらさらとした髪が雫を滴らせているのを見上げて、次男が言った。
「いいんだよ……やなかった。ええんよ。おとんの話が終わったらすぐ帰るんやから」
本当はもう無理をして関西弁を話す必要はない。
それを楽しんでいた人はもう二時間前に白い煙になって空に上っていってしまった。
それでも、約束したから、と長男は関西弁を話し続ける。
「ここで少し遊んどこ。あんま遠くいったらあかんで」
そう言って手を離せば、次男は長男の方を振り返りつつ、持ってきていたサッカーボールを転がし始めた。
「にいちゃんはしねえの?」
「ボクは冬獅郎見とくから。せや、阿近、リフティングしたってや。この間10回出来るようになったて言うてたやん」
「あれはたまたま出来ただけだもん。いつもは5回くらい」
「せやったら練習しい。ボクも見とったるから」
長男が言うと、次男はこくりと頷いて、ボールをぽんぽんと蹴り上げる。
その足元はおぼつかなくて、これはまだまだ練習が必要そうだと、長男はその10歳と言う年齢に似合わない溜息をついた。
雨の雫が、黒い上着にきらきらと輝く。
こないな服、あったんやなぁ、とその裾を引っ張った長男の左手を三男がぷるぷると振る。
どうも次男がサッカーボールを蹴り上げている姿に夢中になっているらしいと知って、長男はふと微笑んだ。
「冬獅郎ももうちょい大きなったら、あないに出来るようなるんえ。今度、晴れたときに一緒に練習しよな。今日はせっかくのべべ汚したらあかんから、見るだけやけど」
長男の言葉に不満そうに唇を尖らせるものの、いつもとは違う兄の様子に、三男はこくりと頷いた。
それを見て、三男も三男なりに今日は我がままを言うべきでないと気づいているのだろう、と長男はその丸い頭を優しく撫でた。
それににこりと笑って三男がしゃがみこむ。
「どうしたん?」
「おかあさんに四葉のクローバーあげるから、にいちゃんも探して?」
そう言って草を掻き分けている三男に、長男はなんとも言えずに黙り込んだ。
きっと、三男だって分かっているはずなのに。
あんなにお別れのとき泣いたのに。
言葉を見つけられずに俯いた長男に、不意に後ろから声が掛かった。
「何してんの?」
振り向けば小さな女の子が三男を見下ろしている。
「四葉のクローバー探してんねんて」
「おねえちゃんも探す?」
無邪気に笑いかける三男に、少女も笑って一緒になって草を掻き分け始める。
それにぱちくりと目を瞬かせたものの、そのまま立っているのも格好が付かないような気がして長男がしゃがみこめば、少女が兄弟?と問いかけてきた。
「せや。こいつが冬獅郎で、6歳。あっちでボール追い掛け回しとんのが阿近、8歳や」
「ふーん、あたしと同じだ」
阿近を見ながら少女が呟く。
「なんで変なカッコしてんの?」
黒い上下の長男を見て、少女が問う。
それに、ちらりと三男の様子を伺った長男は、三男がクローバーを探すのに夢中になっているのを確認して、声を潜めた。
「ボクんとこ、おかん…お母さんが死んでもうてん」
今日はお葬式や、と続けた長男に少女は首をかしげた。
死んだ、ということをきちんと理解するのは少女にも、そして長男にもまだまだ難しくて。
それでももう、会えないのだということだけは分かるのか、そう、と少女は呟いた。
「にいちゃん、これは?」
「これはだめや。三つのんが破れてるだけやんか」
「じゃあ、これは?」
「それはクローバーやない」
見つけるものを次々と出してくる三男はそのことごとくが四葉ではないことに唇を尖らせる。
「これじゃおかあさんにあげられないじゃんっ」
「そないなこと言うたかて、違うもんあげたってしゃあないやろ。にいちゃんも探したるから、冬獅郎もちゃんと探しい」
その遣り取りを不思議そうに見ている少女に、長男は困ったように笑う。
「お母さん、もうおらんのわかってるはずなんやけど……」
「言わないの?あげれないよって」
「分かってるのに探してるんやったら、かわいそうやん」
ふうん、と草を掻き分けていた少女が、あっ、と声を上げた。
「あった!あったよ!!」
「うそっ、ホンマ?」
「おねえちゃん、すごーい!!」
身を寄せ合ってその手元を覗き込めば、確かに四葉が雨の雫を弾いてきらきらと輝いている。
「これ、おかあさんにあげるんでしょ?」
あげる、と笑った少女に、いいの?と三男が言えば、少女はこっくりと頷いた。
嬉しそうにその葉を胸に押し抱いた三男に笑って、少女が立ち上がる。
「ありがとうな」
声をかけた長男に少女はどういたしまして、と得意げに笑った。
「せや、名前、聞いてへんかった。なんていうん?」
「乱菊、松本乱菊」
らんぎく、と繰り返すように口の中で呟いた長男に、少女があんたは?と首を傾けて問いかける。
「へ?」
「あたしもあんたの名前聞いてないもん。名前、なんて言うの?」
「……ギンや」
告げた長男を見返して、しばらく黙っていた少女は眉を寄せる。
「ギン……へんな名前」
「よう、言われる」
阿近もいい勝負だと思いながら長男が溜息をつけば、少女がぷっと噴き出した。
「あたし、もう行かなきゃ」
「家に帰るん?」
「ううん、今日はお祖母ちゃん家に遊びにきてんの。うちはもっと遠く」
そうなんや、とほんの少し残念に思いながら長男が頷けば、少女はじゃあね、と手を振りながら駆けていった。
現れたときと同じように唐突に帰っていった少女に手を振りながら、長男は三男を見下ろす。
少女から貰った四葉のクローバーをくるくると指の中で回している三男は嬉しそうだ。
それに笑んで、長男はボールをひたすら追い掛け回している次男に声をかける。
「阿近、もう帰ろか」
はぁい、と返事を返す次男に頷いて、長男が手を差し出せば、三男が嬉しそうにその手を握ってくる。
「よかったなぁ、それ」
「うん。おかあさんの写真のとこに飾るんだ」
「……写真?」
あげるのではなかったのか、と長男が問いかければ、三男が首をかしげながら不思議そうに見上げる。
「おとうさんが、写真のおかあさんに話しかければ聞こえるんだよって。だからこれも写真のところに飾ればおかあさんにも見えるでしょ?」
違うの?と不安そうに見上げる三男の顔を、長男はしばし見返した。
きゅっと握ってくる三男の手はひどく暖かい。
長男はふっと口元を緩めて空を見上げた。
雨はいつの間にか上がって、空には虹が掛かっている。
あの虹の向こうに、飾られた写真の中に、どこにでも。
きっといつでも見ていてくれるに違いないから。
「……せやな、見えると思うで。おかんにもちゃんと」
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