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□夜の森の天狗
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 しかし、誰もいないはずの夕刻の畦道に、小さな人影が一つ。婆様をじっと見つめている。
「こりゃ。お前…タヘイかい?」
 小さな人影は、「うん。」と頷いた。婆様は、少し遠くにいるその人影に、もう一度声を張り上げて、言った。
「はよぅ、かえらな、母さん達が心配するぞ!」
 人影は、微動だにせず、婆様を見つめていたが、やがて、婆様に負けず劣らずな大きな声で答えた。
「…僕!もっと天狗の話が聞きたいのです!!」
 今度は、ハッとした婆様が何も言わずに人影を見つめる。
 一瞬の沈黙の後、「おいで。」と言いながら、婆様は人影に手招きした。
「特別なんだよ。この時間に人を招きいれるなんざ…。」
 風が吹いて、烏が鳴いた。

      *

 たった一本のろうそくが、頑張って小さな部屋を明るくしようとしている。
 それでも薄暗い部屋が、タヘイは大好きだった。
 婆様は、自分とタヘイの分のラチ茶(紅茶の様な甘い茶)を出すと、ゆっくりと腰を下ろした。
「…お前のとこの母さんは、どうしてるのかい?」
 タヘイは、ラチ茶の赤い水面をじっと見つめたまま答えた。
「相変わらずです。…末っ子の僕なんて、まるで目の上のこぶなんです。兄さん達にとっても、姉さん達にとっても…。」
 タヘイは、六人兄弟の一番末っ子なのだ。長男のダイヨウと長女のライカは、すでに家庭を持っている。そんな兄弟達にも両親にも、親戚の叔父や叔母にまでも、タヘイは誉められたことがない。むしろ、子どものタヘイには出来ないような、辛く厳しい力仕事ばかり任せきっているのだ。
「タヘイ。そんなことを言ってはいかんぞ。母は必ずお前の事を思っているはずじゃ。」
「はい。…ごめんなさい。」
 タヘイの声がわずかに震えている。
 婆様は、タヘイの家族をよくしっている。
 五番目の娘キイラは、大変な器量良しで、今年、この辺りを治めるダラワン氏の息子の元へ嫁に出ることも。明日の儀式でタヘイが死ねば良いと、実の母がいっていた事も──。
 タヘイの、さらさらと輝く茶色気味の髪と、伏せられた長い睫は母親ゆずりのものだろう。父親ゆずりの男らしい眉を隠せば、彼は少女にだって見える。婆様はぼんやりとそんなことを考えていた。
「ほら。お天道様がダナ山に沈んじまった。向かいの山から昇る頃には、<天狗破リノ儀>が始まる。帰って母さんに、チョグ(鶏肉と酒を煮込んだ煮物)でも食わせてもらい。もし…」
「ぼ…僕がなんかに母さんがチョグを…。」
 婆様の言葉を遮って、タヘイがパッと顔を上げた、が、婆様は、ぽんぽんっとタヘイの頭を撫でて、優しくいい聞かせるように言った。
「人の話は最後までよく聞くもんさ。とくに年寄りの言葉はね。…タヘイ。今夜泊まって行ったらどうだい?天狗の話が聴きたいんだろう?」
 タヘイは、大きな瞳を見開き、きらきらと輝かせた。
 ──あの家に帰らずにすむ!!
「はいっ!!ありがとうございます!」
 婆様はしわくちゃな顔を綻ばせた。


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