D R E A M
□初めての
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電車を降りて、時計を見ると、待ち合わせ時間の20分前。少し早く着きすぎたかもしれない。なにか飲み物でも買おうかと、駅のまわりを見渡そうとした。でも、正面の細い時計台、その下で視線が止まった。
「綾芽くん」
確認するように呼び掛けると、なにやら地面を見つめていた綾芽くんがぱっと顔を上げた。私を見たその顔は、怒っているでもない、かといって笑いかけてくれるでもない無表情。
「ご、ごめん、遅れて」
「…別に遅れてないだろ」
そう言われて、すぐ真上の時計台を見上げた。針はやっぱり、待ち合わせ時間の20分前を指していた。
「そっか」
「そうだよ。ずいぶん早かったんだな」
「綾芽くんこそ」
「俺は、さっきまで近くで用事があったから」
「えっ」
綾芽くんはそう言って、ふいと辺りを見渡すような仕草を見せた。ちょうど、おじいさんからエサをもらっていたハトの大群が、食事を終えたのか一斉に飛び立った。午前10時の駅前広場、こんな場所で、この時間に用事があったのか。
「それ、もう大丈夫なの?用事」
「ああ。早く行こ先生」
「う、うん。何の用事?」
「いいだろ、なんでも。先生、シャガールは好き?」
「しゃが…?…うん、好き」
突然飛び出したシャガールという言葉については、どこかの国の画家ということしか知らない。それなのに適当に好きと答えてしまったのは、綾芽くんがすたすたと歩き出してしまうから。
「この先の美術館で、シャガール展がやってるから。さっきたまたま広告見たんだ」
「あ、うん、そうなんだ、いいけど…」
ハトの大群も、広場の噴水も、目もくれないように綾芽くんは早足で歩く。あの噴水なんて、通り過ぎるにはもったいないくらいきれいなのに。空は青くて、白い雲は流れてて、緑色の木々がそよいでいる。せっかく時間がゆっくりと流れているのに、綾芽くんだけせっかちみたいだ。
「綾芽くん、ちょっと」
「何?」
「ちょっと、待って」
その足を止めようとして、綾芽くんの腕を掴んだ。振り向いた綾芽くんが動揺した表情を見せたから、私は慌てて手を離した。
「もう少し、ゆっくり、歩こうよ」
「…………」
「ねえ、綾芽くん?」
「…ごめん」
てっきり、「のろま」とか「うすのろ」とか言われるのかと思った。やっぱりさっき見えた表情は、気のせいなんかじゃなかった。目の前の綾芽くんは、どこからどう見てもしゅんと下を向いている。
「お…怒ったわけじゃないよ?」
「ごめん先生」
「だから怒ってないってば!」
「うそついた」
「はい?」
「本当は用事なんてない。早く着き過ぎただけ。美術館もたまたまじゃない。ちゃんと調べてきた」
ガラにもなく細い声で話し始めた綾芽くんをぽかんと半口を開けて見ていたら、綾芽くんが唇をきゅっと結んだ。
「お前に楽しんでもらわないと、困るから。外したくないんだよ絶対」
「……なんでそんな…」
「初めてだから」
「え?」
「初めての、デートだから」
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