「麝香ーMUSKー」

□第2章 U
1ページ/9ページ

 スロットルを握り締めた俺は向かい風の中を走ってゆく。

いっそこのまま何処かへ消えてしまいたい。

あの世でもいい。苦しみのない世界へ旅立ってしまいたい。


速度メーターが上がってゆく。


悠璃、俺を迎えに来てくれ。

貴女のいない世界は辛すぎる。

先輩ではなくて、俺を手に掛けて欲しかった。


先輩の遺骨の前であんな事して、俺は罰当たり者だ。



…ごめん、先輩。俺はもう駄目かも知れない。



何処かに突っ込んで自殺するつもりだった。

実際にはそんな勇気もなく、やがて自分の住むアパートに戻って来た。



荒々しい運転をして悪かったな、おまえは一番の理解者だな。

APEは 何も言わずに俺の味方をしてくれる。

 サイドミラーにメットを掛けて、さびれた階段を上がりきると部屋の中から掃除機の音が聞こえてきた。


一体誰が来たんだ?


鍵が開いている。

躊躇いもせず勢い良くドアを開けると、玄関先にどこかで見たような革靴が並んでいた。


すぐさま部屋に上がると、そこには美紗緒ネエがエプロン姿で掃除機をかけていた。

俺の顔を見るなり嬉しそうに微笑みを向ける。

「おかえり。遅かったね。今、バイト終わったの?」

「美紗緒ネエ、何してんだよ。こんなとこで」

「見りゃ、わかるでしょう? あんたの部屋掃除してんのよ。荒んだ生活してんでしょう? 埃だらけじゃない。洗濯物は随分溜め込んでるし、全部洗っといたわよ」


南の窓には空が見えないほど洗濯物が干してあった。


「明日の朝にはもう乾くだろうから、自分で取り込んでよ」

「どうしたんだよ、何の風の吹き回し?」


そう尋ねると、照れくさそうにお腹をさする。

「赤ちゃん出来たんだ。駿吾ももう叔父さんになるんだよ」

「嘘…!」

「嘘じゃないって。来年の2月19日頃が予定日なんだ。川島さんが仕事辞めたらって、言ってくれたんで辞めちゃった。当分フリーだから暇してんの」

「暇してるって、こんな事してる場合じゃないだろ。もしもの事があったら、どうするんだよ。取り返しつかない事になるじゃん」

「大丈夫だって。つわりもないし、そんなに神経質になることないって」


そう言った姉貴が俺の顔をジロジロと見つめる。

「あんたさぁ、苦労してるのか知らないけど、随分感じ変わったね。二十歳の若々しさがないなあ。不摂生してるんじゃないの? ちゃんとご飯食べてんの? …女の子連れ込んだりしてない? ちゃんと避妊しなさいよ。出来てからじゃ遅いんだから」

思わずどきっとしてしまった。当たっているだけに何も言い返せない。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ