「マグノリアの咲く庭」
□4.導 線
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「でも、丸山のお父さんが慌てるって言う事は、何か知ってるからと違う? それが分かればいいのに」
「うーん」
あと一歩と言う所でまた壁にぶつかる。
背が高くスポーツマンで、いつでも笑みを絶やさず僕等の心の支えだった沖田先生。
姿が見られず寂しいのは僕だけではなくクラスの皆もそうだ。
不自然な長期の欠席で最初は僕等だけが騒いでいたが、徐々に他のクラスやPTA等に広まって行った。
何か事件に巻き込まれたのではないのかと言う噂が、誠しやかに流れていたが、先生方は一向に多くを語ろうとしない。
運動会、修学旅行がいつの間にか過ぎ、二学期が終わろうとしていた。
そんな十二月のある朝、朝食中に新聞を見ていた父が母を呼び止めた。
「お母さん、ちょっとこれ見て」
洗濯物を干していた母が気づいて手を止め、父の指差す三面記事に目を通す。
テレビを見ながら食パンを食べていた僕が、何気なしに母を見た。
母の形相が険しい顔に変わっていく。
その時、朝のテレビ番組がニュースを告げた。
『昨夜十一時頃、神戸市北区の路上で、頭から血を流し倒れている男性が発見されました。第一発見者の話では、大きなブレーキ音が聞こえた後、白い車が走り去ったのを目撃しており、警察では轢き逃げと断定し捜査を続けています。男性は、北鈴蘭病院精神科病棟の入院患者で、沖田涼一さん三十歳。昨日の夕方五時頃に病棟を抜け出し、行方不明中に事故に遭ったものと見ています。なお、沖田さんは意識不明の重体でしたが救急車で運ばれる途中、息を引き取ったという事です。また、他の目撃者の証言で車の割り出しを行っている模様です。…それでは次のニュースです』
画面に写っていた写真は沖田先生その人だった。
僕の中にあった大切な物が、硝子細工を落としたように壊れていく音が聞こえた。
いつもなら慌ただしい朝なのに、スローモーションのように時間が流れる。
いや、天井がぐるぐると回っている様だ。
座っているのに身体が浮遊し、次第に意識が遠くなっていくのを感じた。
母が僕の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
薄暗く冷気を感じる部屋で、僕は横たわっていた。
朦朧とした意識の中、水道の蛇口から水の雫が一滴ずつ落ちていく音が聞こえ、目を覚ました。
そこは監獄なのか地下室なのかも分からない。
窓も扉もなく、不気味な部屋ですぐ横に池があった。
天井から水の雫が落ち池の中に溜まっていく。
さっきの音はこの音だった。
寒い。
余りの寒さで凍え死んでしまいそうだ。
震える体を思わず擦った。
吐息まで白く凍りつく。
逃げ出さなければ。
気づくと足首に鎖がかけられ石壁に繋がれていた。
叩いてみたが頑丈でびくともしない。
見渡すとさっきの雫は消え去り、星も見えない暗黒の夜空が広がっていた。
満月が僕をほのかに照らす。
曲がりくねった階段が見えた。
空へ誘う様に果てしなく聳え立っていた。
脱出を試みたが階段に手も届かない。
苛立ちと焦りが拳にあらわれ、その手で石壁を叩きつける。
足元に池の水が広がる。
よく見ると血で出来た池であった。
地の底からマグマが噴き出す様な地響きが轟く。
池の底からこの世の物とは思えぬグロテスクな手が這い上がって来る。
そして僕に手招きをする。
その長く伸びた爪で喉を掻き切るつもりなのだろうか。
それとも腹をえぐるのだろうか。
危機迫った緊張感が僕を極度の興奮状態へと導く。
血の池が足の膝にまで溢れ出す。
両腕からその得体の知れない正体が現れる寸前だった。
目を覚ますと見慣れない病院の一室にいた。
僕の左手に点滴が一本繋がっている。
父がベッドの傍にあった長椅子に俯いて座っていた。
僕が目覚めたのに気づくと、椅子から立ち上がり顔を覗き込む様にして僕の頭を撫でた。
「聖、気分はどうや。大丈夫か」
父の問い掛けに首を縦に振り、返事をした。
「僕、どうなったん」
「急に倒れたんや。お母さんが救急車呼んで、ここへ連れて来て貰ったんやで。お母さんが働いてる病院の方が安心やからな。今、先生と話してる。もうすぐ戻ってくるわ」
何故倒れたのだろう。部屋の中を見渡した。
白い壁に文字盤のはっきりした丸い時計が掛かっていた。
十時五十九分を差していた。
そんなに眠っていたのだろうか。
個室の様で十四インチのテレビが設置されている。
ぼんやりと朝の事を思い出した。
僕は目を見開いた。
「お父さん、先生が、先生が……」