【恋愛条件】 ヒバツナ子
そもそも、どうして僕に婚約者が必要なのか、今から親を半殺しにしてでも問いただしたい。お茶を入れると言って出ていった彼女を気にせずに書類処理を進めていれば、数分後に聞こえた耳に痛い音につい舌打ちをしてしまった。無視しよう、そう思いもしたが、自分の家の台所を修復不可能にされても面倒だ。そう思い、重い腰を浮かした。
「何してるの?」
見ればやはり彼女は鍋ややかんをひっくり返して頭からかぶっていた。どうしたらそうなるのか不思議だが、よくよく見れば、それらは高い吊戸棚にしまっていたもので、それを一人で懸命に取ろうとした結果らしい。
「す、すいません! あの、」
「こんなことになる前に誰か呼べばいいでしょ」
「う、は、はい」
どうしてこんな鈍臭いガキが僕の婚約者になったのか。まあ、家柄は相当いいらしいから当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、名家の娘としては低能すぎる。僕よりも重一も年下だし、学力もただの公立らしいし、何より料理も裁縫もお茶も花も何もかもできないと聞いている。一体今まで何を学んできたのか…。
「ここはいいから君、部屋に戻りなよ」
「……はい」
肩を落として台所を去る姿を一瞥して、僕はすぐに草壁を呼んだ。ここの片づけとお茶の用意を言いつけて部屋に戻れば、ソファの上で足を抱える姿が見えた。
面倒臭い。それを見た瞬間思ったのはそんなことだ。慰める義理もないし、優しくするつもりもない。むしろこのまま彼女が拒否をして、この婚約自体もなくしてしまいたい。そう思うくらいだ。
「ねえ、嫌なら帰ってもいいんだよ」
声をかけるのもおっくうだと思いながらも、消えてくれるならさっさと行ったほうがいいと思ってそんな言葉をかける。びくりと肩を震わせた彼女は、恐る恐る顔を上げて僕を見てきた。
「……、嫌だなんて思ってません」
「ふうん、そうなの? じゃあここで僕が君に何をしても帰らないってこと?」
「……嫌だって思ってるのは、ヒバリさんですよね?」
僕の質問には答えずに、彼女はそう言ってきた。こういう時だけはまっすぐに視線を向けてくる彼女を、僕は正直苦手だ。どうせいつかは壊そうと思っていたこの関係。今すぐに壊してもどうってことはない。しかし、どうして彼女が僕自身の心を見破ろうとするのか。その姿勢が気に入らない。
「へえ、わかってるんだ。じゃあ消えてよ。僕は君みたいな子と婚約するつもりない」
「じゃあどういう人なら婚約する気あるんですか?」
「……さあ、とりあえず君みたいな無能じゃないないね」
「……仕事の補助も、家事も、何もかもできる人と婚約したいのでしたら、オレの前に連れて来てどうぞ勝手に愛を深めればいいじゃないですか。でも、貴方はどうせ誰であろうと婚約する気、ないんでしょう?」
さっきまで怯えていた女とは思えないはっきりした口調で向かってくる彼女に、僕は多少興味が湧いた。今まで何を言ってもはいかいいえ、すいませんくらいしか口にしなかった彼女が、こんなにもきっぱりと言い切る姿を初めて目にした。それがまさか僕が求める婚約者像だなんて誰が想像できるだろうか。
「ああ、そうだね。だからどんなに君が理想的な婚約者でも僕は同じことを言ったよ」
「……じゃあ猶更オレはこの婚約から降りる気ありません!」
少し拗ねたように口をとがらせて、彼女はそっぽを向く。ぎゅっとソファの上にあったクッションを抱きしめるその姿は、今はここから一歩も動かないと訴えていた。
何をそんなに意地になってこの地位にこだわるのか。家柄的なものを言えば僕の所より彼女の方が格段に上だ。たとえ彼女が無能でも婚約者希望は山のようにあるだろう。それこそ雲雀家よりも格式高いところからも。
動かないというなら仕方ない。面倒だと思いつつ、僕は彼女の方に歩み寄った。少しだけ身体を固くするその姿に、少なくとも恐怖はまだ感じているのだと確信する。
「じゃあそうすえればいい。何をしても降りないっていうなら、僕も好き勝手やらせてもらう」
ぐっと彼女の顔に手を当ててこちらに顔を向けさせた。見える甘栗色の瞳はかなり大きい。容姿は美人でもなければ不細工でもない。可愛いのジャンルには入るだろうが、それも平凡的だ。嫌いな顔ではないが、好きでもないそんな彼女の顔を見つめて、噛みつくようにキスをした。
「っ…!?」
途端硬直する彼女に微笑んで、口内までも犯してやる。数秒、数十秒、数分と、おそらく彼女が味わったこともないキスを長時間与えてやれば、ついには酸欠に陥ったのか、弱弱しく胸を押してきた。離れれば荒い呼吸を繰り返して俯く。
「どう、婚約者とのキスは。嬉しい?」
「……は、っ…」
「これに懲りたら変な挑発しないことだね。次は君が中学生でも、どうするかわからないよ」
「な、んで…こんなこと」
「君が生意気だから。ねえ、ほら…顔見せてみなよ」
下に向けている顔をまた無理矢理に向けせれば、そこにはリンゴのように赤くなった顔があった。今まで見たこともない表情だった。少し細められたその目は少し涙目になっていて、気のせいか否か熱がこもっているようにも見える。まるで慈しむ対象を見るかのように彼女のその顔は確かに《女》のものだった。
「ヒバリさんのバカ! こんなことされたら…もっと、逃げられなくなります」
そう言って今度こそ部屋から出ていった彼女を、僕はただ見つめることしかできなかった。
どうでもいい相手だ。そのまま逃げてしまえばいい。そう思っているはずなのに…。
彼女のあの顔が、いつまでも頭から離れずに残る…。