逃水の宴

□大切な人で五題
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・沼のように沈んでいく心をすくい上げてくれた貴方

まっくらで、つめたくて、しずかで、こわいこわい所。
怯えて震えるからだをぎゅっと抱き締めて、草人はただただ時が流れるのに委せていた。否、時間の経過も分からないこの空間では、一体どれ程の時が過ぎたのかなど全く分からない。それもまた恐怖のひとつとなって、小さな草人の心はきゅうっと音を立てて縮まる。

(――こころ…)

そうだ、この「ココロ」はあの人がくれたもの。草人の脳裏に蘇るのは、草人の見守る大樹の根本に住まう人。
太陽のような黄金の髪と、何も映さない何もかもを通すような硝子色の瞳。
彼の存在を思い出すと、草人の心は、そして連動するように体はすうっと軽くなった。

(そうだ…あの人がいる…)

やさしい、やさしいあの人が。
草人は叫んだ。喉の奥から絞り出した声で、彼の名を呼んだ。暗い闇の中でそれは響くこともなく音にすらならなかったが、草人は叫び続けた。

(たすけて…たすけてっ!)

真っ白の世界を彩る、欠片の一つを冠したひと。
ぱち、と瞬いた次の瞬間、闇がとけるように消えていった。そしてそこに立っていたのは、草人の思い描いた彼。

「ひ、か…っ…!」
「……間に合った、か」

草人が涙を滲ませて喜色を浮かべるのに対し、彼は冷静に呟いた。けれど草人は構わず駆け寄る。本当は抱きつきたいけれど、彼はきっと戸惑うだろうからしなかった。
ただ彼の前まで行って、にっこり笑って言った。

「ありがとう」
「……。別に俺は、」
「ありがとう。今回のことも、今までのことも」

きっと彼は草人を助けるためじゃない、自分にとっての弊害を取り除いただけだ、と言うだろう。草人はそんな彼の言葉を遮って続けた。

「世界を歩いてくれて、ありがとう。世界を作ってくれて、ありがとう」

女神さまは言うけれど、草人には彼が単に敷かれたレールの上を歩いてきただけだとは思えなかった。だってもしそうなら、絶望に陥ったときに真っ先に彼の姿なんて思い浮かばない。草人が優先するのは、何よりの「ラヴ」なんだから。

「ボクにたくさんのラヴを、ありがとう」

だから草人は、選ばれることができたのだ。

「……、」

彼はじっと草人を見詰め、やがてゆっくりと口を開いた。真っ直ぐな言葉に、どんな顔をしていいのか分からない様子は、草人にも容易に分かった。

「……礼をいうのは、たぶん俺の方だ」
「?」
「…お前が居たから、俺は世界を歩いた」

真っ白な世界に絶望しなかったのは。敷かれたレール上を歩くだけでなかったのは。
そうして、歩き続けられたのは。

「……ずっと、お前がそばに居てくれたからだ」

そう言って、彼はほんの少し顔を歪めた。それは不器用な彼のぎこちない笑みなのだと、草人は分かった。
分かった瞬間、ほわん、と草人の心があたたかくなった。それが何か知る前に、草人の体がふわりと浮いた。

「……ありがとう、一欠。ボクはマナの樹をなおしにいくよ」
「俺も…すぐに行く」
「うん。キミならきっと大丈夫」

草人がやさしい風に流される前に、一欠がそれを呼び止めた。

「…お前の、名は」

草人は満面の笑みで答えた。
一欠は自分の名を嫌って居たけれど、草人は自分の名が大好きだった。

「――マナ。いつもずっとキミのそばにいる、“マナ”だよ」



END.
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