逃水の宴

□恋するしずく
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「バレンタイン、ですか?」
「そう! 今日がその日、好きな人にチョコレートを渡す日なのよ!」

エメロードさんが、唐突にそんなことを言ってきた。首を傾げて訊いていると、エメロードさんはどこからか本を取り出してくる。
それ、何ですか?なんだか分厚くて、わたしだったら枕にして寝ちゃいそうなくらいの本。彼女が持つには魔導書の方がふさわしそうなのだけど、それとも違う、一般的な装丁の、けれどとても古そうな本。

「古いんじゃないけど、ヌヌザック先生たら書庫の整理とかしないからすぐホコリ積もらせちゃうのよ」
「ヌヌザック先生の、本なの?」

あの魔方陣の顔(というか体も含めて、全身)と、エメロードさんの口にした「好きな人にチョコレートを渡す」という言葉はとても不釣り合い。わたしはきょとんとエメロードさんの持つ本を見詰める。
けれどエメロードさんはパタパタと手を振って、苦笑。

「ああ、これ、別に乙女雑誌とかそういうんじゃないのよ。っていうかもしそうだったら、あの人に似合わなさすぎてあたし今頃笑い死にしてるわ」

とても恩師に向ける言葉ではないようだけれど、これはきっとエメロードさんとヌヌザック先生の間の壁なんてないって意味だと思う。それほど、冗談を言えるほど、二人の仲がとってもいいってこと。
エメロードさんは私の見詰める先、本をぱらぱらと捲ってとあるページで手を止めた。開いたページをこちらに向けてくる。
解読を試みようとしたけれど、一見びっちりと文字が埋め尽くされていて、どこから読んで良いか分からない。それに難しい字がいっぱい。こんなの読めるなんて、エメロードさんってすごい。やっぱり魔法学園に行っていた、から?
困惑しているわたしを見かねてか、エメロードさんは苦笑を浮かべてページの真ん中あたりを指差した。

「歴史書よ。文化史みたいなのが書いてあるの」
「ほえー…」
「ここに、バレンタインのことが記してあるわ」
「なんて書いてあるんです?」
「2月14日………えっと、要約するとつまり、女の子がチョコを作って、好きな人にあげる日がバレンタインってこと!」

エメロードさんは少し焦った様子で早口にそう言って、本を閉じてしまった。彼女がそうする理由は良く分からなかったけれど、わたしは彼女の言葉を反芻していた。
好きなひとに、チョコレートを。
 
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