逃水の宴

□あい を 背に
1ページ/2ページ


今日は青空の広がる良い日和だ。廊下ですれ違った修道女が大量の洗濯物を入れたかごを抱え、忙しなく駆けて行った。あまりの慌て様に思わずダナエが声を掛けると、彼女はにっこりと笑んで、「御天気が良いので、修道院中のシーツを洗うんです」と意気込んで言った。手伝いを申し出ようとしたが、彼女はこれこそが自分の仕事で、仕事に生きがいを感じているので決して苦ではないと主張するものだから、それ以上強引に彼女の仕事を奪ってしまうわけにもいかず、「じゃあ、頑張って」としか言えずにその場を離れた。
修道院の小さな窓は鉄格子こそないが、ステンドグラスの嵌め込まれた色とりどりの硝子は光を透かすには薄暗く、閉鎖的な印象を与える。洗濯物を干したりするテラスに出れば断崖の自然がパノラマに広がるが、屋内にずっといればじきに息が詰まってしまう。特に、今日のような麗らかな日和には。

「………」

彼女も、そうだっただろうか。閉じ込められるように一室に籠り、僧兵の見張りを付けられ仄暗い部屋で過ごす日々。
上天につけられた窓から射す僅かな光が時間だけを告げる。外のことは何も分からない。風も、においも、音も。
「このままじゃあ賢人になりそう」祈りを捧げるか本を読むか、彼女に与えられたのはその二つ。仕事の合間にダナエが顔を出すと、彼女は幼い笑顔を浮かべて歓迎した。そして、そう自嘲気味に笑った。
いっそそうなれたら。達観できたら。世界を愛せるだろうか。マチルダは遠い目をして言った。
今の彼女はこの世界が好きではない。彼女の愛した彼を排除する世界。彼女の愛する気持ちを否定する世界。彼女はしかし世界を嫌いにはなれなかった。彼と出逢えた世界。彼を愛する気持ちを知った世界だから。

「……死んでしまったら、賢人になんてなれやしないわ」

今は亡きマチルダの司教室の扉を開ける。すぐ目の前に、いつも彼女が座っていた椅子がある。老婆となってからは彼女が身を横たえていた長椅子。その椅子に、今は色取り取りの花が供えられていた。修道女や、ガトの街の人々、寺院に参拝する旅人達が献花していった物だ。
ダナエはそれを両手に抱えて持ち上げた。いくつかの花が零れ落ちる。一度では無理そうなので、何度かに分けて運ぶことにする。マチルダがいかに慕われていたかが分かると嬉しくなる。けれど、彼女の眠る場所は此処では無いのだ。

「今日は、良い天気ね」

廊下で先程の修道女に会う。彼女は残りの洗濯物を取りに往復しているところらしかった。ダナエの抱える花々を見てギョッとして、それから目尻を下げる。

「お手伝い、しましょうか」
「いいえ、これが私の仕事だもの」

そして、ダナエはこの仕事に生きがいを感じているのだ。
先刻の自分の言葉を繰り返されて、修道女は苦笑する。「では、お気を付けて」と彼女は言って、また忙しなく小走りで去った。
腕の中から溢れそうな花を落とさないように気を付けて、ダナエは寺院を出た。断崖の街を上へ上へと進む。やがて辿りついた場所は、風の良く通る開けた場所だった。そこに、ふたつの石がある。彼女と、彼女の愛した彼の眠る場所だ。
勿論マチルダの公式な墓は別の場所にある。しかしそこはあくまでも司教としての彼女の墓だ。ここは、「マチルダ」の眠る場所。
ダナエはその石のうちの一つの前に運んできた花を置いた。断崖に花畑が咲く。マチルダが世界に愛された証。
そしてもう一つの石の前にも、二束の花を供えた。これは、彼がこの世界に居たという証。道中にダナエがガトの街に来た花屋の行商人から買った物と、何やら用事があって来られないと朝方に慌ただしくやってきたあの人から渡された物。忙しくても、これだけは忘れなかったらしい。ルシェイメアが堕ちたあの日から、欠かさず見舞いに来てくれている。

「マチルダ、あなたはさいごに、この世界を愛せたかしら」

或いはこの場所で、世界を愛せるだろうか。
眼下に広がる断崖のガトの街。そして遠くに見える青い山々。緑茂る森。煌めいているのは海だろうか。それらの合間に人工的な建物も見える。世界の縮小図が、ここにあるようだ。
太陽が照っている。青空が広がっている。鳥が鳴いている。そよ風が撫でてゆく。
世界は今日も、うつろいゆく。
ダナエは眩しそうに、彼女と彼を見下ろして、微笑んだ。

.
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ