洋画アメコミSS

□Oh Happy Morning
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甘々習作ワトホム

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 その朝、私が目を覚まして居間へ出ていくと、普段よりいくぶんこざっぱりとした格好のホームズが先に朝食をとっていた。
「おはよう……早いな」
 欠伸を噛み殺しながら声をかけたが、ホームズはちらと目礼しただけで、片手に持った新聞に再び視線を落とした。
「何か面白い記事でも載ってるのか」
「……いや、別に」
 ホームズはそう素っ気なく返すと、椅子を引いて席についた私と入れ替わるようにして、そそくさと新聞を畳んで食卓を離れた。
 後に残された私はというと、唖然とするばかりである。
 今のホームズの態度はなんだ。
 私の経験からして、ホームズが規則正しく起床し、きちんと朝食をとる、ということは、彼の気分が上向いていることを示していた。ホームズという男はしばしば憂鬱な気分に陥って、外界との関わりを遮断してしまおうとすることが間々あったのだが、そういうときの彼は、私でさえもその世界から閉め出そうとする。しかし、それは決して不機嫌な訳ではなく、ただそういう「気分」なだけであって、しばらく放っておくと、長くとも二週間も待てば、憂鬱で自己憐憫に満ちた感情のトンネルから自力で抜け出してくるのだった。
 昨日までのホームズは、普段どおりのホームズだった。今朝はさらに、普段よりも早起きで健康的に朝食まですませていた。それなのに、あの態度はどういうことなのだ。
 ホームズの奇行には慣れたつもりだったがやはり釈然としない。もやもやした気分のまま、ハドソン夫人が運んできた朝食を食べた。味気ない食事だった。

 夫人の勧めてくれた食後の紅茶は辞退した。
 横目で伺ったホームズの部屋は妙に静かだ。本でも読んでいるのか、意図的に息を潜めているのか、気配すら感じられない。
 ひとつ溜め息をついて自室の扉を開けた途端、その静けさの理由に合点がいった。
「ホームズ……!」
「やぁワトソン、お邪魔しているよ」
 にこやかな笑みを浮かべた探偵は、私の椅子にふんぞり返ったまま、悪びれもせずに挨拶を寄越した。
「まぁそんなところに突っ立っていないで、ソファにでもかけたまえよ」
「……ここは僕の部屋だぞ、ホームズ」
「だからソファを勧めたんだよ、ワトソン。部屋主が床に座るんじゃあんまりだろう?それに目覚めたばかりの君に、再びベッドに腰かけろというのも忍びないからね、下手すると二度寝しかねないし。ドクターは昨夜、本に没頭して夜更かししたようだ、この本、挟んである糸屑がずいぶん進んだね。……しかしどうだろう、英国紳士が栞がわりに糸屑を使うというのは、どうにもエレガントでない気がするな」
「……分かった、分かったよホームズ、君が今ハイな気分だということはよく分かったから、そんなに矢継ぎ早に喋らないでくれ」
 片手をあげて彼を制すると、ホームズは不服そうに唇を尖らせた。
「失礼だな、今日は薬はやってないぞ」
「薬でないなら、さっきの食卓での態度はなんだ」
「……それについてはワトソン君、君の推理を見せてくれたまえ、さぁソファに座って!」
 ホームズは私のお気に入りの安楽椅子から立ち上がると、呆気に取られている私をソファに誘導した。いや、誘導したというよりは押し倒したという表現のほうが正確だろうか、ともかく、妙に嬉々とした様子でホームズは私を二人がけソファの片側に半ば強引に座らせると、そのまま自分は隣に腰かけて、私の名推理をわくわくと待ち始めてしまったのである。
「君は毎回、一番近いところで私の仕事を見ている。推察のいろはも見てきたはずだよ」
 ホームズはソファの背もたれに右腕を回すと、にこにこと小首を傾げながら私の顔を覗き込んでくる。
「推察といったって…!だいたい、君が得意とするのは現場を観察して証拠や論拠を見つけ出すことだろう。でもこれは、君の感情の問題じゃないか!私に分かるはずもない」
「ふむ、確かにそうだな……でもワトソン、それなら尚更、君の領分じゃないか。それともなにかい、君が得意なのは女性の心の揺れを察知することだけなのかい」
 厭味のように「君はいい男だからねぇ」とつぶやくと、ホームズは横になってソファに座る私の腿に頭を載せた。ソファからはみ出た足をぶらぶらさせながら、「さあ推理をどうぞ」とのたまう。
「君は私の仕事だけじゃなく、私自身のことも一番近くで見てきたはずだ。私の行動パターンも読めるだろう?」
「とんだ自惚れだな、ホームズ!……まぁでも…そうだな……」
 天井を見上げて、今朝のホームズの行動と普段の彼の行動を思い起こす。そんな私を、機嫌良く見上げているホームズの視線を感じた。
「……そうだな、まず、君が朝から規則正しく朝食をとっていたということは、君の気分が上向いていることを表しているはずだ。少なくとも、薬も事件もなしでそうだったのだから、君がいつもの憂鬱に陥っていないことは分かる。事件がない、というのは、今こうして暇そうにしていることからも分かる、何か興味を惹かれる事件があったら、君は私に話さずにはいられないだろうからね。…それに、昨夜はうるさい物音も異臭騒ぎもなかったから、怪しげな実験で気を紛らせていたわけでもないだろう。ということは、君の機嫌は朝からすこぶる良かったわけだ……」
「うんうん、いいぞワトソン、それで?」
 膝の上の豊かな癖っ毛を指先で弄びながら、私は考える。
 機嫌良く目覚めたホームズ、気分もいい、誰彼かまわず朝の挨拶をして回りたいくらいだ。起き出してきた私に新聞のいち記事を取り上げて、他愛ない演説でもぶちたかったのかもしれない。
 しかし、彼が朝食を食べ終わるころになっても、今日に限って寝坊した私はなかなか現れなかった……
「……そうか、ホームズ、拗ねたんだな!」
 そう思い至って、彼の大きな瞳を覗き込むと、まん丸な黒目が驚いたように揺れた。
「……すごいな、ワトソン!君は私自身でも気付かなかった私の気持ちを解読できるのか……ああ、確かにさっきの行動は、君をヤキモキさせてやろうとして取った態度だ。おかげで君、朝食の間じゅう、ずっと私の行動が気になって気になって仕方なかっただろう?……だけど、私が拗ねていたからそうしたんだとは、自分でも気が付かなかった……そうか、確かに拗ねていたのかもしれないな…」
 後半にかけて独り言のようになっていく彼のつぶやきを聞きながら、私は満更でもない気分になっていた。ホームズが私を含め、誰かの推理を手放しで褒める、ということはそうそうないことだからだ。
 ホームズの名探偵ぶりを何度も目の当たりにしてきたからこそ、あのホームズに認められるというのは何ともくすぐったく、この上ない栄誉のように思われた。
「もう少し聞きたいか、私の推理」
「ぜひ聞きたいね」
 ホームズは私を見上げながら、腕を伸ばして私の口髭を撫でた。ふわふわの黒髪をすいてやると、気持ち良さそうに目を細める。
「……朝食の場であんな態度を取った君だけれども、とにかく今朝は気分が良かったし、私と話したい気分だった、だからすぐに、私の部屋に忍び込んだ。机の上の本を見れば、栞がわりの糸屑があと少しで読み終わる、というところに挟んであるから、私がすぐに部屋に戻ってくることは想像がついたのだろう。……しかし、勝手に私の私物を漁るのは頂けないがね。……それから、私が本を読むときに座る安楽椅子に先に陣取った君は、私をソファに座るよう仕向けた。なぜって、こうしてじゃれ合いたかったからだ。違うかい?」
「すごいぞワトソン!あんまりすごいから、キスしてやろう!」
 ホームズはくすくす笑いながら、口髭を弄んでいた手を私の後頭部に回すと、ぐっと私の上体を引き寄せた。いつになく素直に甘えてくる様子が好ましくて、私も素直にキスに応じてやる。
 触れるだけの軽いキスをひとつふたつ落として唇を離すと、ホームズがまたくすくす笑った。
「最後にもう一つ問題だよ、ワトソン。私は今、君とセックスしたいと思ってると思うかい?」
「うん……正直なところ、思っていないだろ」
「……よく分かったねぇ!私に関することなら、私以上に名探偵かもしれないな、君は」
「でも、キスはいっぱいしたいんだろ?」
「……君も、ようよう自惚れ屋になってきたな!」
「はずれたかい?」
「当たりだ」
 そうして嬉しそうに目を細めた探偵に、私はもう一度、キスを落とした。
 たまにはこんな朝も悪くないと思いながら。


―――

END
  

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