洋画アメコミSS

□ぬるま湯
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  *
 
 シャワーを終えたダニエルは地上の自宅に戻ったとき、やけに静かなのを訝しく思った。キッチンの机の上には、空になった煮豆の缶詰にスプーンがつっこまれたまま放置されている。彼の食べたあとだ。しかし、当人の姿は見当たらない。
 温めもせずに、流し込むようにガツガツと豆缶をかきこむロールシャッハの姿が思い浮かぶ。最近、ダニエルは何とかして彼に食事の楽しみを教えたいと苦心していたのだが、その試みはあまり成功していなかった。
 ロールシャッハは食べ物の香りや温度や盛り付けなどといったことには一切執着せず、まるで食事は体の訴える空腹感を満たすためだけの義務であるかのように、喉の奥に食べ物を流し込む。美味しいものを味わいたいというよりも、不味くなければ構わないという考え方で、たまたま買い置きしてあった煮豆の缶詰が手軽で気に入ったのか、放っておくとそればかり食べている。
 関わりが深くなればなるほど、ダニエルは今までのロールシャッハの生活を思って悲しい気分になるのだった。彼には清潔だとか食事だとかの、生きるうえで基本となるべき衣食住の観念が欠落している。それは、今までの彼の人生が根幹の部分から不安定で、満たされたものではなかったことを示しているように思われた。
 手負いの獣のように常に周りを警戒し、決して己に妥協しないが他人のことも信用しない。そんなロールシャッハに少しでも心を開いてほしいと思っていたが、彼にとっては迷惑でしかなかったのだろうか。机の上にぽつんと放置された豆缶が、無性に悲しかった。

 しかし、リビングの扉を開けた瞬間、ダニエルの胸は踊った。テレビの前に置かれたソファの背もたれから、マスクを被ったのっぺりとした後頭部が覗いていたからだ。
「…ロールシャッハ?」
 小声で名前を呼んでも、後ろ頭は反応しない。目の前のテレビは消音でニュースを流していた。テロップによると、どこかの路地裏で女性が暴行を受けて殺害されたらしい。自警活動を続けていても相変わらず犯罪はなくならない。
 ソファを回り込むと、ロールシャッハはマスクを半分ずり上げたまま眠っているようだった。鼻から上はマスクに覆われているので確認できないが、荒れてかさついた唇がいつになく無防備に薄く開かれている。よほど疲れていたのだろうか、ロールシャッハがダニエルの前で眠るということは、今までにない出来事だった。
 深夜のテレビニュースは、また別の殺人事件について報道している。音を消してあるとはいえ、珍しく無防備なロールシャッハの眠りを害してほしくない。チャンネルを繰っても心が明るくなるような報道がなかったので、ダニエルはオーケストラの演奏を消音のまま見るという、奇妙な選択をした。
 キッチンから赤ワインのボトルとグラスを二つ取ってきて、冷蔵庫にあった保存用の鴨スモークをあける。小柄な相棒の隣に腰かけたとき、ソファが沈むのに反応したのか、ロールシャッハが身動ぎした。
「……起きた?」
 すぐ隣に座るダニエルに驚いて反射的に逃げようとするロールシャッハの手に、無理矢理ワイングラスを握らせる。完全に覚醒してしまえば、アルコールは飲まない、と拒否されるに決まっているので、荒れた唇が拒絶の言葉を吐く前に赤ワインを注いだ。
「飲んで……今日の仕事もうまくいった。祝杯だよ」
 ちらりと、先ほど見たニュースの映像が頭をよぎる。自分たちがギャングを追っていたのと同時刻に、別の街角では女性がレイプされて殺された。こうしている今も、きっと……
 すべてを救うことはできない。ダニエルはそう考えて自分を慰めるが、恐らくロールシャッハはその妥協を受け入れられないだろう。ロールシャッハの戦い方や考え方は、ときどきダニエルをひやりとさせる。失われた何かを取り戻そうとするかのように、まるで犯罪の被害者を救うことで自分自身をも救おうとしているかのように、ロールシャッハは潔癖なまでの正義感に突き動かされているように感じる。
 願わくば、今夜はこの年上の相棒の心が穏やかでありますように。そう念じながら、ダニエルは目の前の不思議なマスクの柄を見つめた。規則性はないはずなのだが、心なしかその模様は悔しがっているように見えた。ダニエルの前で眠ってしまった自分を恥じているのだろうか。
 テレビ画面の中では、ヴァイオリンが揃ったボーイングで無音の音楽を奏でている。ダニエルがそちらに気を取られている間に、ロールシャッハは一気にグラスを傾けた。
「あっ!」
「……なんだ」
「あぁ、ロールシャッハ…ワインはそんな飲み方しちゃダメだよ」
 悔しさ紛れのヤケだろうか、それとも、食べ物と同じで、今まで酒を味わうこともなかったのだろうか。きっとその両方だろうなと思いながら、ダニエルは空になったグラスにもう一度ワインを注いだ。
「一口含んで……すぐに飲み込まないで、香りを楽しんで」
 ロールシャッハは少し躊躇ったが、一杯飲むのも二杯飲むのも同じだと思い直し、大人しく従った。ダニエルの言う通りにすると、先ほどは渋みしかなかったワインに豊かな芳香を感じた。
「次は、これ」
 ダニエルは真空包装のフィルムから出して皿に盛り付けただけの鴨肉のスモークに、粗挽きの黒胡椒をたっぷりとふりかけたものをひと切れつまみ上げる。
「用意してなかったから、簡単なものしかないんだけど……はい」
 ダニエルの指でつまみ上げられた鴨肉を、ロールシャッハは躊躇いながらおずおずと咀嚼した。
「そう……飲むんじゃなくて、よく噛んで味わうんだ」
 ダニエルは自分もひと切れスモークをつまむと、グラスに口をつける。彼はロールシャッハに対して少しずつ無遠慮な振る舞いをすることに、言い知れないスリルと興奮を感じていた。猛獣を手懐けていく感覚とは、こういうものなのだろうか。
「もう一度、さっきのようにワインを飲んでみて……」
 先に一気に空けたグラスのワインが回ってきたのだろうか、ロールシャッハは半ばぼうっとした頭でダニエルに従う。舌に残るスモークした鴨肉の香りと黒胡椒の辛みが、ワインの渋みと芳香と絡み合って、意外にも美味しいと感じた。
「……うまい」
「よかった!」
 ダニエルが嬉しそうに破顔するのを見ると、ロールシャッハも嬉しくなった。今までになかった経験をダニエルはたくさん与えてくれたが、その中の一番は、自分の行動で相手が喜んでくれるという体験だ。認めたくはないが、それは病み付きになるような、とろけるような自己肯定感をロールシャッハにもたらした。
(悔しいが、俺は今さらダニエルから離れられない……)
 改めて自覚してしまって、ロールシャッハは愕然とした。離れられない、だからこそ怖いのだ。いつか、ダニエルが自分に愛想を尽かして離れていってしまうことが。

 いつの間にか、ダニエルの腕がロールシャッハの肩に回っていた。強引さがないので拒むタイミングを失ってしまったが、艶めくブルーの瞳に見竦められてロールシャッハは息を飲んだ。マスクで表情が隠れているのを幸いと、視線をさ迷わせる。とてもではないが、見つめ返すことなどできなかった。
 突然、ロールシャッハの頬に温かいものが触れた。まばらに生えたダニエルの短い髭が自分の頬を柔らかく刺すのを感じて、キスされているのだと気付く。肩に回された腕に僅かに力がこめられた。
「君の嫌がることはしないから……嫌でなければ、動かないで……」
 キスの合間にダニエルが耳元で囁く。ちゅ、ちゅ、という音がいたたまれない気分にさせるが、体が硬直してしまったロールシャッハは動けなかった。
「ダ…ニエル、やめ…!」
 嫌がることはしない、と言ったくせに、ダニエルには遠慮がなかった。本気で嫌がれば、ロールシャッハは自分を殴り飛ばしてでも逃げることをダニエルは知っていた。
 肉厚の唇は、ロールシャッハの赤毛の不精髭をざりざりと舐め上げたり、啄むような短いキスを落としたりしながら、首筋にまで降りていく。そこを強く吸い上げられて、ロールシャッハは思わず手足をばたつかせた。
「っ!……ダニエル!」
「……嫌?」
「お、お前……ホモなのか!?」
 ダニエルの質問には答えず、ロールシャッハは別の質問ではぐらかした。
「違う、はずなんだけど……君を見てたら、何だか愛おしくなっちゃって。うん…やっぱり君に対してだけだと思う、こんなふうに興奮するのは……」
 後半部分は囁くようにして、ダニエルはロールシャッハの下顎を捉える。
「嫌なら、殴って逃げて。……でないと、止められなくなる」
「―――っ!」
 強引に奪おうとしてくる相手の対処法ならば、ロールシャッハはいやと言うほど知っていた。しかし彼は、自分の意思を尊重しながらおずおずと触れてくる手との距離の取り方を知らない。
 何より問題なのは、嫌だと思わないことだ。好ましいとも思わないが、拒否してダニエルを傷つけるくらいなら、と思ってしまう。
「……拒絶しないの?もう……知らないよ」
 きれいな碧眼が正面からロールシャッハを射抜いたかと思うと、両手で頬を包まれて、唇が触れ合った。荒れた唇をダニエルの舌で潤され、そのまま、歯列を割って熱い舌が侵入してくる。
「だ、ダニエル…!やっぱり、やめっ…」
 蠢く粘膜の感触に翻弄されながら、ロールシャッハの脳裏には卑猥に絡み合う、男女の影が蘇っていた。それは彼が、この世で最も嫌悪している光景だった。


  
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