小説(西洋もの)

□交響曲
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   英雄

 ウィーンの空は暗黒の雲が漂っていた。街は重苦しい空気が立ち込めている。通りに人影はあるものの、何かに怯えているかのように、その行動はよそよそしかった。街のいたるところには兵隊が実弾をこめて立っていた。
 一七九二年、レオポルト二世の後をうけて、その息子フランツ二世が神聖ローマ帝国の地位に就いた。フランツ二世は二代前の皇帝であるヨーゼフ二世とはまったく反対の立場に立ち、自由主義を敵視し、フランス革命の影響からオーストリアを守ろうとしていた。故に、ヨーゼフ二世の思想にしたがって、新しい改革に身を捧げた人たちを職から追放したり、あるいは逮捕投獄、さらには死刑にしたりして弾圧した。
 それは何事もなかったかのように、平和の装いのうちに進められたが、本質は一種のクーデターであった。ウィーンはいまや反動のるつぼと化し、大きな黒い陰うつな空気の漂う町となっていた。

 当時、新鋭の音楽家として、めきめきと力をつけていたベートーヴェンはこのような雰囲気の中で創作活動に励んでいた。ある日、リヒノフスキーという貴族の邸宅で夜会があり、彼はその会に招かれた。リヒノフスキーは大の音楽好きとして知られ、以前はモーツァルトの支援者であった。現在はベートーヴェンの数少ない支援者の一人である。この夜会にはベートーヴェンの他にもウィーンの著名な芸術家や愛好家が招待され、古典派の巨匠ハイドンもその例外ではなかった。
 ベートーヴェンはこの夜会で自分の作品を披露した。作品は好評で、皆が褒めた。大勢に囲まれて、祝福を受けている時、ハイドンが歩み寄って来た。
「ベートーヴェン君、君の作品の三番目は出版しない方がいいと思うよ」
「えっ、なぜですか!」ベートーヴェンは、すっかり驚いてしまった。彼自身、その曲が一番いいと思っていたし、今日の演奏でも最高の効果を発揮したからだった。
「いや、少しテンポが変だと思わんかね」
「そんなことはありません」ベートーヴェンはハイドンが自分の優れた新作に焼き餅を焼いて、悪意を抱いているのだと解釈した。
「そうか、君がそういうのなら仕方あるまい。それでは、その作品の表紙に君の肩書きとして、ハイドンの弟子と書き入れたまえ」
「失礼ですが、お断りさせていただきます」ベートーヴェンはハイドンに交響曲の作り方を学んでいたが、実際はほとんど自分のためになっていないと感じていた。しかも、ハイドンの添削指導には彼が気付いただけでも、数多くの見落としや間違いがあった。
「ハイドンなんて、たいしたことないじゃないか。モーツァルトが生きていたらなあ。本当に惜しい人物を亡くしたなあ」ベートーヴェンは遠ざかっていくハイドンの背中に向かってつぶやいた。
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