目が覚めれば体がひんやりとしていた。
些か驚いたが、外に出てあまりの寒さにそれも納得がいく。
今日の気温はいくら木枯らしの近づく時期だからといってもあまりにも寒く、冷たかった。
その冷たさに、自分はまだ溶けてないと心のどこがで安心をしたりしていた。
ただ、そう思いたかっただけなのかもしれないが。
自室から出ればやはり、一眠りしたのがよかったのか、頭には昨日のような混乱はなく妙にすっきりとしていた。
ゆっくりとした足取りで執務室へと足を踏み入れると、すでに黒崎がいて笑顔で迎えてられた。
松本も後ろで笑みを浮かべているのが見える。
ふとそれを見て、最近松本はあの怯えた顔や心配をするような表情をしなくなったと思った。
笑顔というものが増えてきている気がするのだ。
「おはようございます。」
「あぁ。」
「よ!日番谷!」
「…なんで朝からいるんだ。」
「まぁ、いいじゃねぇか。」
文句を言ってもいつも通り、へらへらと笑いそんな、我がもの顔でソファへと座っている黒崎を睨みつける。
そんななかでも松本は常に顔を綻ばせていた。
以前までは不安いっぱいに顔を歪めていたはずだった。
「それじゃあ、書類提出してきますね。…あと、すみませんが少しおそくなると思います。」
そう両手に少量の書類を持ち振り返った松本は、やはり口元を緩めていて笑みを浮かべていた。
「あぁ、わかった。」
「すみません、お茶はここに置いておきますね。では失礼します。」
バタンと扉が閉まる音がやけに耳に響いてきて、松本の変化に少し戸惑った。
別段、自分が気にすることはないのだが何故か不思議に思うのだ。
その笑顔は明らかに自分へ向けられており、そして何故その笑顔が自分に向けられるのか。
そんなことが気になってしまい、少し顔を歪めてしまう。
疲れたように一つ息をこぼせば黒崎にそれめざとく見つけられた。
「どうした?」
「いや、なんでもない。」
不審気に声をかけられたが、話す必要もないと大した返事もせずに机に向かった。
黒崎も、問い詰めても仕方がないと感じたのかそれ以上のことは言ってこなかったのだ。
筆のすべる音だけが響く中、しばらくすると耐えきれないといったように黒崎が口を開く。
「なぁ、日番谷。」
「何だ。」
「つまんねぇんだけど。」
「知るか。」
「ひどいな。…あ、そういや昨日平気だったか?」
「…何がだ?」
ふと、気付いたように言う黒崎に初めはあの自分すらコントロールをできなかった様を聞いているのだと思い、たじろいだ。
筆をすべらす手が一瞬止まった。
「あの大雨だよ。今朝方まで冷たく降っててさ、そのおかげで今日は結構寒いんだよ。」
だが、そんな俺の様子を見ていなかったのか、黒崎は窓越しに外を見ながらその光景を思い出すように話すだけだった。
気付かれてはいなかった。
それは今の自分にとって、唯一の安心というものだったのかもしれないとも思う。
今、昨日の夜の話をされてしまっては、直接的に関係のない話題であってもまるで、傷口を抉られるように俺は蝕ばれてしまうだろうと思うのだ。
そうなっては遅く、昨日のように落ち着くことなどはできず今度こそ己を保つことができない、そう確信ができた。
それは、初めて俺が感じた困惑というものだったのかもしれない。
「日番谷?」
急に止まった俺を見て不審に思ったのか黒崎が問い掛けてくる。
冬獅郎と慣れ慣れしく呼ばれるのが嫌で、仕方なく許した呼び名だった。
それがどこか自分を咎めるように聞こえて嫌悪に思えてくるのだ。
気付けば、逃げるように俺の唇がそっと言葉を紡いでいた。
「…松本はなんで最近よく笑うんだ?」
「…へ?」
唐突な俺からの質問に驚いた黒崎は、ずいぶんと間抜けた声を発した。
しかしすぐに意味を理解したらしく、あごに手をやり考える仕草をしている。
「そうか?」
「あぁ、なんだか最近よく見るようになった。」
「日番谷は乱菊さんの笑った顔嫌いなのか?」
思えばそんなことは考えたことがなかった。
そもそも、あの自分が分からなくなるような、見つけたくないものを見つけてしまいそうなあの感情から離れたかったため、俺はあの言葉を紡いだのだった。
「…いや、嫌いではない。」
咄嗟に出た言葉はどこか枯れているような気がした。
確かに、あまり向けられたことのないその表情が嫌いではなかったと思う。
あまり向けられたことがなかったため、どうかと言われても戸惑うだけだが言われて初めて気分は悪くなかったと気付く。
「だったら別にいいじゃねぇか。」
「……」
「乱菊さんが笑ってる。日番谷はそれを見ても嫌にならない。なんの問題もねぇだろ。」
確かに、松本が笑顔だからといって自分にはなんの害も無く気分を悪くするわけでもないため、なんの問題もないのだ。
ただ純粋に、気になるだけだった。
「…気になるだけなんだ。」
「なにを?」
ぼそっと呟いた言葉に黒崎は反応を返してくる。
それがどこか優しさじみていて少しだけ気持ちが狼狽えてしまう。
答える気がなくとも、自分の口は意志とは反し言葉を発してしまっていて、頭の中で警報が鳴り響き抑止をかけていた。
「…今まで恐れながら俺を見ていたはずの松本が何故俺を見て微笑む?」
これ以上話しても仕方がないと理解していたはずだが、感情が高ぶりはじめた脳はとまることなく言葉を吐き出させてくる。
「何故松本は俺を信用して、信頼して俺に笑いかけるんだ?」
「何故他人を信用できる?」
「俺は人を信じることなんかできない…!」
今自分に言い聞かせないといけなかったのだ。
「俺は人を信じない…!!」
「俺はまだ溶かされない!!」
今まで耐えていたものがついに爆発したかのように、最後には声を荒げていた。
せっかく避けていたはずなのに、俺は自らその領域に入り込んでしまっていたのだ。
再び少し、気温が下がった気がした。
「お、おい大丈夫か?」
慌てたように心配をする黒崎の声がどこか遠くに聞こえた。
自分は、いつもの冷静さはどこへ行ったのか握り拳をぎゅっと握り、荒い息を吐きながら床を睨みつけているだけだった。
「と、とりあえず落ち着け日番谷。どうしたんだ急に。」
なにがなんだかわからないといったように、黒崎は混乱しながらも自分を宥めてきた。
確かに、松本の笑顔が気になるという話題から一転し、感情が爆発しはじめたのだから無理もないだろう。
自分自身でも驚いているのだ。
「えと、ゆっくりでいいから言いたいこと言ってみろ。聞いてやるから。」
そう言われると自分はためらいも無く口を開いていた。
相当参っていたに違いないだろう。
「…俺は人が嫌いだ。」
「あぁ。」
ポツポツと話し始めた俺の言葉を一つも聞き逃さないかのように黒崎は耳を傾けてきていた。
「誰にだって心を開いたことは無いし、これから開くつもりもなかった。」
「だが昨日、松本に言われた。」
「なんて?」
「『隊長は変わった』」
最初は思ってもなかったのだ。
自分は自分であり、第一どこが変わったのかわかることもなく、わかりたくもなかった。
だが、深く考える度に自分は心を開き始めているに気付き恐ろしくなったのである。
「そしたら恐ろしくなった。自分は心を開き始めているのに気付いて。誰も信じないと決めたはずなのに、俺は人を信じはじめていた。」
「……」
「それを認めたくなくて目を逸らした。」
「何故?」
「…たぶん、人に裏切られることを怖がっていた。」
「深く、強く、誰かを信頼したあとに裏切られるのが嫌だった。」
嘲えることに自分は傷付くことを恐れていたため、人を信じなかったのだ。
すべては己を護るため、そんな浅はかな考えに呆れてくる。
滑稽だというように、自分の放つ霊圧は冷たく、鈍く体に突き刺さってきていた。
「じゃあなんで乱菊さんが笑い始めたのが気になったんだ?」
覚めた頭が理由を考える。
しかし、いくら考えても答えが見つからず特に深い意味を込めたわけではなかったことに気付いた。
実際に、何故笑うことができるのかそんな些細なことが気になっただけだったのだ。
結局は逃れた意味も無く、どんどんと落ちていくような言葉になってしまったのだが。
「あれはただ単純に、何故笑うことができるのか気になったんだ。」
「…それは、なんで安心して人に笑顔を向けることができるのかってことか?それも日番谷自身に。」
「……」
そうかもしれない、と知らない内にそんなことが疑問になっていたのだろうと思った。
笑顔というものを向ける感情も知らず、向けられる感情も感じたことがないかったためそんなことに対して異様に思ったのかもしれないのだ。
「…そんなに不思議なのか?」
なにが、とは聞かなかった。
自分が口を開かないで黙っていると、黒崎は頭をガシガシとかき乱しながらため息を一つ吐く。
その音を聞いて苛立ち、文句を言ってやろうとも思ったのだが黒崎に阻まれてしまった。
「んな難しく考えんなよ。」
「……は?」
自分はこれほど間の抜けた声を出すことができたのか、と頭の隅で思った。
人がこれほど混乱し、己を見失うほどまで参っていたというのに、この男の言いざまに少し苛立つ。
一気に場の雰囲気は黒崎の放つ空気に包まれてしまったのだ。
「お前…」
「ようは今まで嫌って信じたくもないって思ってたはずの他人を、信じ始めてる自分に戸惑ってそれを認めたくなかったんだろ?」
「それに乱菊さんが最近笑顔になりはじめたから、よけいに自分が変わったって気付いて嫌になったんだろ。」
「だけどその自分に向けられる信頼が別に嫌じゃないっのがわかってまた戸惑った。」
「だけどそれも認めたくない。でもってそういった螺旋階段みたいなもやもやが今日爆発しちまった。」
淡々と早口で言葉を述べる黒崎に唖然とした。
きれいにまとめられた黒崎の答えに、納得もいく。
ただ一つ違うことは、事の発端が黒崎だということだったのだが。
黒崎こっちに来てから俺はおかしくなったのだ。(いやこれは正常になったと言うべきか?)
ここまで自分を出す性格でもなかったし、何より他人に弱みを吐くなんてことは一度もしなかったのである。