novel : two

□精神統一
1ページ/3ページ

 真夜中の鍛練。淀んでいた空気を浄化するべく、精神統一をする。纏わりつく不浄を内から外へと出し尽くし、己との対峙を試みる。
 座禅を組み、掌を合わせ己の煩悩を心の深層へと仕舞い込み、この邪心と真っ向から向き合う。
 本当は、錘を振り上げ、筋肉の形成を促したい。が、この船の航海士に夜は静かに眠りたいの、という有り難くもねェお達しが通告され、夜中の鍛練は精神の鍛練に切り替えた。
 精神統一。精神統一。精神統一…。
 駄目だ。こんなんで精神統一を乱すなどとは。溜息を床へと吐き散らし、肩で息をする。
 おれの真横。距離は数メートル。ようは、甲板の端と端。おれは右側、ロビンは左側。気配で分かった。女部屋のドアが開き、階段を降りる靴の音を耳が拾った。誰なのかはすぐ分かった。踵から爪先まで、いや、全身で感じる。
 微かに花の匂いがおれを包み込む。まるで蝶が舞う花畑にでも迷い込んだようだ。甘く華美な匂い。おれを惚けさせる媚薬が含有されている。この誘引物質は、おれの理性を無効としてしまう、恐ろしい効能が含まれている。
 精神統一…。精神統一……。
 無理だろう。ったく、こんなんで心が乱れを起こすようじゃ、おれもまだまだだ。横を見遣れば、おれを模写したかのように座禅を組み、掌を合わせている。目を瞑り何かを思案しているようだ。

「…勘弁してくれ」
「え? 私?」
「てめェしかいねェだろうが。何か? てめェにはおれ以外に人がいるように見えんのか?」

溜息を吐きつつ、愛しい女を睨む。

「…ええ。あなたの隣に浮游するものが…」
「な、何!?」
「ふふ。冗談よ」
「ばっ! アホかっ!」

 口吻に片手を滑らせ、さらさらと笑むお前に、おれは成す術がない。惚れている弱みといえばそれまでだ。
 だが、こいつにはそれ以上に心を落ち着かせる何かを持っている。それは残念ながら、おれだけに作用する訳ではない。他クルーにも効く、安定剤なのだ。そうだ。ロビン自体が精神安定剤なのだ。

「とにかく、茶化すのは止めろ」
「茶化してなんかいないわ。私も精神統一をしているの」

 ったく、甲板の両端で座禅を組んでいる様相を考えたことはあるか? 異様だぞ? 今、この状態で他クルーがこの場に居合わせてみろ。口をポカンと開き、見てはいけないモンを見たかの如く、目を隠すように瞼を閉じ、この場をそそくさと立ち去るだろう。異常だ。奇異だ。奇妙だ。
 それよりも何よりも、何が楽しくてこの距離を保つ? おれだけがお前に夢中だと。夢中なのだと頭ごなしに言われているようで、無性に苛立つ感情を抑えられない。
 虹を掴みたいのに掴めない。実体はそこにあるのに、掴もうと手をのばすと空を切る。そんな状態に酷似している。だから掴めもしない虹にもどかしさを感じ、焦り、無理矢理身体をこれでもかというぐらいに傾け、己の生えている腕を精一杯力の限り伸ばすのだ。
 思惟がぶっ飛び、またしても煩悩がおれに降りかかってくる。そして、いつの間にか隣へと移動してきたロビンに、おれは身も心も震わせるのだ。この愛しい女を手に入れたい。だが簡単には手に入らない。
 悔しくて拳を握りこの感情を飲み込む外ないのだ。おれの気持ちを知っているくせに、この女は性質が悪い。おれの心を玩び、虜にするのだ。

「煩悩は振り払えた?」
「てめェが言う台詞じゃねェのは分かってるな?」
「何故?」

 かァーっ。こうきたか。お前のせいで精神が乱れてんだよ。ちったァ分かれ。

「…何でもねェ。早くどっか行っちまえ」

 睨め付け、舌打ちながらそう言えば。徐に立ち上がったロビンが不快さなど表情に出さず、寧ろ愉快な表情を飛ばし、おれにこう言って退けた。

「あら、お言葉ね。いいわ。ダイニングでコーヒーでも楽しんでくるわ」
「ちょっと待て」

 おいおい、待て待て。今行くのは許さん。キッチンにはまだコックがいる筈だ。さっき酒を取りに行ったときにゃ、まだ明日の朝メシの仕込みをしていた。
 そのコックに酒を断られて、一戦交えてからおれはずっとこの場にいる。男部屋のドアは開いてねェ筈だ。
 と言うことは。まだコックはキッチンにいる。ロビンがそこへ行くとなると、コックと顔を合わせるということで。二人きりになるということで。
 それはマズイ。それはいかん。何が起きるか分からねェ。









next→
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ