人生の杜

□愛
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ネットで出逢った言葉ですが、本当は、人間は生きていくうえで「今愛ならばどうするだろう」という基準をもって言動なり行動なりをしていれば、それだけで充分だそうです。

「今愛ならばどうするだろう」とまず考えれば、人として道を誤る事は無いし、後で悔やんだり、悩んだり、思い通りにならない事にいらだつ事も無いと思います。

「今愛ならばどうするだろう」と考え、導き出された答えを変更してしまって、違う行動を自分自身に与えてしまったなら、仕方なかったと、言い訳せずに、後で、自分自身を慰めてやる必要があると思います。

本当の自分を裏切り、蓋をしてしまったのではないかと、よくよく省みる必要があります。

ちゃんと本当の自分の相手をしてやっておかないと、垢がつき、真のの愛が何であったかを見失ってしまいます。

「愛」に相対する言葉は「不安」であるそうです。

これもネットで出逢った言葉ですが、この二つが相対するものとは知りませんでした。
心理学では愛に相対するのは破壊になります。

心の中はまさしく、「愛と不安」で成立しているように感じます。

現代人の為のような言葉があります。
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●不安はちぢこまり、閉ざし、引きこもり、走り、隠れ、蓄え、傷つけるエネルギーである。
●愛は広がり、解放し、送り出し、とどまり、明るみに出し、分け合い、癒すエネルギーである。

不安だから身体を衣服で包むのであって、愛があれば裸で立つことができる。不安があるから、持っているもののすべてにしがみつき、かじりつくが、愛があれば、持っているすべてを与えることができる。

不安はしっかりと抱え込み、愛は優しく抱きとる。不安はつかみ、愛は解放する。不安はいらだたせ、愛はなだめる。不安は攻撃し、愛は育む。

人間の考え、言葉、行為のすべては、どちらかの感情がもとになっている。ほかに選択の余地はない。これ以外の選択肢はないからだ。

だが、どちらを選ぶかは自由に決められる。

決断しようとすると不安が勝ってしまう場合が多いのは、それは不安を抱えて生きるように教えられているからだ。あなたがたは適者生存、いちばん強いものが勝利を得る、いちばん利口な者が成功すると聞かされてきた。

だから―いろいろな方法で―あなたがたは適者になろう、いちばん強くなろう、利口になろうと必死になり、どんな状況でも、少しでも劣っていれば負けてしまうという不安におびえる。

子どもの頃からずっと、劣ったものが負けるといい聞かされてきたためだ。

あなたがたはもちろん、不安に支えられた行動を選択する。そう教えられてきたからだ。

だが、教えてあげよう。愛に支えられた行動をとれば、生き延びるだけではなく、勝利するだけでなく、成功するだけでなく、それ以上のことができる。

そのとき、自分は本当は何ものか、そして何者になりえるのかという、栄光に包まれた経験ができるだろう。
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特に不安に対しての認識はとても重要になると思います。

悩みを含め、自分の抱えている問題を解決する時に、正しいかそうでないかの判断に苦慮し、迷路にはまり込む時があります。

そんな時に、問題の根幹、出発点が愛なのか不安なのかを考える事により、もつれていた糸がほぐれやすくなります。

私達は、本当の愛が何であったかを、すでに見失っているといって過言ではありません。
小さな時から、善意ではあるが間違った教師(学校の先生のことだけではありません)たちの教えを聴いてきたからです。

小さな頃は、その教えが変だと感じても論破する事は到底出来ません。

反論できずに、それに迎合せざるを得なくなり、いつしかそれを自分の基準にするようになります。

本当の自分を、垢の自分がコントロールするわけですから、ギクシャクこのうえないです。

そしてそれは、自分の子孫に受け継がれていきます。

「善意ではあるが間違った教師たち」には、親も当然入ります。

決して親や、先生を裁くのではないです。
これは自分を裁くに等しい事です。
何故なら、自分が過去そうであったのですから。
自分も死ぬまでそうあり続けていたかもしれないからです。
裁く権利などあるはずがありませんね。

愛の姿をした不安を教えたということそのものを裁く事が重要です。

自分で断ち切っておく責任があります。

裁くに関しての余談ですが、人が人を裁く、死刑はあってはいけないことと思います。

「今まで後ろめたい事をしたり考えた事がない」と言い切れる人は皆無です。

凶悪な犯罪を犯す人が生まれ育った環境を自分が背負ったなら、自分もまたそうなる可能性があることは、皆が知っています。

死刑は、自分を死刑にする自殺に等しい事です。
親や子供や友を死刑にする殺人に等しい事です。

犯罪を産み出させてしまう社会構造、すなわち皆に責任があることを分からなければなりません。

愛する人はいつどんな死に方をするかも分かりません。

人は、愛する人がいつどんな死に方をしても不思議ではないと、充分理解して暮らしておく必要があります。

愛する人を殺されたからと、復讐しても、償いを求めても死んだ人は還りません。

復讐は愛する人を奪われた上に、殺人までさせられてしまう二重悲劇です。

「愛する人を奪った上に、この私に殺人までさせやがって!」と死んだ犯人に言えません。

死刑はその復讐行為を、自分の手を汚さず、国に押し付けることです。

国が死刑を執行する時、国は国民を罪人にしてしまっています。

先進国の多くが死刑制度を廃止している中、日本では9割近くの国民が支持しているのは異常を感じます。思慮の欠如を感じます。
そこにメディアの誘導がないでしょうか?

「今愛ならばどうするだろう」
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