言葉にできないしあわせを

□土井先生の家(前編)
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「土井先生、遅いですよー!」

「そう急かすんじゃない…」

『きり丸くんは今日も元気いっぱいだね』

「いやあ、名前さんが居るからです!」

『うふふ、ほんとかなあ』


前の方で名前さんと手を繋ぎながら、いつもより元気良く歩いていくきり丸。
いつもはどこかにいいアルバイトはないかとか、タダで近所のおばちゃん達とどぶ掃除なんてイヤだとか、道端に小銭が落ちているかもしれないとか言って。
歩く速さはカメのように凄く遅いのに…今日は一段と張り切っているのが分かる。

一方の私はいつもなら少しでも早く家に着いて、なかなか参加出来ないどぶ掃除なんかを手伝って
家賃を払って掃除や洗濯をして…、とあくせくしているのだが…。
今はそんなことよりも、家に着いた後の事だけで頭がいっぱいで足が重くなってしまっている。

名前さんを見たら、近所のおばちゃん達にはもう絶対に騒がれるだろうし…。
質問攻めなんかにあったら、名前さんは困ってしまうかもしれないし…。
大屋さんにも、彼女の事をちゃんと紹介しておかなければならない…。

何よりも、少し前のほうを歩いている名前さんの左手を取ってきり丸みたいに一緒に歩きたいとは思うのだが
そのほんのちょっとの勇気が中々でないでいる事に悩んでいるなんて近所のおばちゃん達に話したら、きっと笑われるんだろうな…、と考えていた。



「うちは汚なくて狭いですが、のんびりしてってください。」

「おい、きり丸…。」

「でも先生、知らないで驚かれちゃうよりマシだと思いますよ?」

「確かに…そうだが」



名前さんが我が家に来る日が来るなんてな
今考えても不思議なくらいだ。



「それに、近所のおばちゃんも大家さんも何だかんだ言っていい人ですから!」

『うん、でも…初めてだから緊張しちゃうな』

「大丈夫ですよ、ん!」

『…えっ?なあに?』



私がしみじみと感傷に浸っていると、きり丸が名前さんに耳打ちで何かを教えている光景が目に入った。
さすがにひそひそと話している声はここからでは聞き取れない。
アイツ…、一体何を話してるんだ…。



『ええっ』

「それしかないです!」

『いいのかな…?先生怒らない?』



え?怒る…?私が?
名前さんはなんだかほんのりと顔を赤らめているし、きり丸はやけに嬉しそうにしている。



「近所のおばちゃん対策にはそれが一番いい方法ですって!」

『…うん、分かった』



近所のおばちゃん対策?
うーん…私とはただの友達ですとか挨拶されてしまうのだろうか。
それとも、仕事でたまたま会ったので…とか言い訳されてしまうのだろうか。
どっちにしろちょっと悲しい気分だ…。



「じゃあ、早いとこ行きましょう!先生も!」

「はいはい!」



我が家まであと少しというところに来て、もうどうにでもなれ!と思い、私も心を決めて大きく一歩を踏み出した。



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