「姉上〜〜〜っ!! 助けてください、今度紅家の姫が後宮に来るとかで私はどうしたらいいんでしょうか!?!? しかも貴妃なんですよ、私はまだ仕事なんてするつも――」 「落ち着きなさい」
とある晩。 王宮に自分が戻ってから、おおよそひと月過ぎた頃。 室にいきなり飛び込んできた弟が擦り寄ってきながら叫んだ。
ぼうっと月に照らされた夜桜を小上がりで眺めていた私は、窓枠に肩をぶつけて目を眇める。 涙目で見上げてきた弟――今上帝である劉輝の額を指で弾く。
「霄太師から話はすでに聞いています。 あの狸の決めたことなのですから、今更覆せませんよ。紅家の直系の姫ですからそんな失礼なことはできませんし。後宮入りを止めようものならアノ紅家当主に何をされるか」
額を擦っている劉輝の隙を見てもう片方の腕からも逃れる。 窓際に残った劉輝は逆光のせいで表情が見えないが、まあまだ涙目だろう。
劉輝はまだ兄上の影を追っている。 いつか戻ってきてくれると信じているから、政治は執りたくないと。 だがそれももう、無理だろう。
(…入ってくる姫は秀麗姫だからな。兄上も護衛として羽林軍特別昇進。 劉輝が確実に政を始めるように仕組まれている。……癪だが流石狸)
これから起こることもある程度予想できる。 だとしたら、自分がすべきなのは徹底した秀麗姫の周辺の守りか。 兄上の腕を信用しないわけではないが、後宮の中での武力面以外の守りは女である自分がしたほうが効率もいいだろう。
狸は劉輝のことしか考えていないから信用できないし。
「ですけど、姉上…! そうだ、姉上なら黎深殿にだって…」 「却下」
窓から離れた劉輝が再び詰め寄ってくるのを避ける。 きっぱりと断言した私の言葉に、劉輝はしゅんと項垂れた。昔から思うが、犬の尻尾が見えるようだ。
「どうしてもっていうのなら劉輝自身で黎深に直談判して来なさい。黎深は私を通した貴方の願いなど聞かないでしょうし、私もそこまで貴方の世話をするつもりはありませんよ。もうすぐ二十歳でしょう」 「そんな…」
あの黎深殿に私が勝てるわけないじゃないですか、と嘆いた劉輝が私の袖を掴む。 腰が引けている劉輝の顔をじっと眺めて、彼に足りないところに苦笑を溢す。
(まあ、まだ十代だしな)
内心首を振りながら、劉輝に対して微笑を向けた。
「とにかく、もう断れないことなんですから、しっかり現実受け止めて頑張ってきなさい。 大丈夫、最善を尽くせば、何事も己にとって上手くいくように世界は仕組まれていますよ」 「…姉上……」
未だ不安そうに瞳を揺らす彼の頭を一度だけ撫でて、部屋を出るように促す。 じゃあせめて舞を見せてくれ、見たら落ち着くからと言われて、仕方無しに一緒に外へ出た。
春特有の、太陽の目が無いときだけコソコソと舞い戻ってくる冬の空気が肌を刺す。そして夜桜が月の下淡い紅色を散らせる中、さらさらと足を、手を進める。 確かに静まっていく劉輝の呼吸を感じて、心の奥底からも棘が生えてくる。
桜の花弁、紅い色。それは、血の色。 私の舞は、戦いの乱舞。ただ今は、手に武器がないだけ。
何も知らぬ劉輝は、澄んだ真っ直ぐの目で私を注視する。 彼の穏やかな呼吸に、無音で尋問されているような錯覚を、おぼえた。
|